学園だより阿部先生の思い出

トロッコに乗って遠くまで行けると思っていたのに、良平は「裏切られて」、ひとりで夕闇せまる線路づたいに家路を急いだ。ようやく村に着いた良平に、近所のおばさんたちが声をかけた。それなのに、良平はそれに答えもせずに家に向かった。良平のその時の気持ちはどうだったんだろうね。

中1の国語で芥川龍之介の『トロッコ』の授業。阿部先生は、そう質問した。「はやく家に着きたいので答えている余裕がなかったんだと思います。」「聞こえなかったんじゃないでしょうか。」などなどの答えが次々に出た。先生は、腕を組んで、う〜ん、と言ってなかなか首を縦にふらない。

ぼくは、そのとき、なんだかはっきりと良平の気持ちが分かるような気がした。ちょうど似たような経験を小学生のころにしたからだ。もちろん「トロッコ」に乗ったわけではないが。で、勇気を出して手をあげた。「お、山本。」と指された。「怒っているんだと思います。」と答えた。みんなが、え〜?って感じで、しばらく沈黙があった。先生は、そのとき、にっこり笑って、「うん、そうだな。」と言った。嬉しかった。それから10年後、そのぼくが国語の教師として教壇に立つようになるとはその時夢にも思っていなかったし、ましてさらに12年後、阿部先生の同僚として働くようになるなんて想像を遙かに越えることだった。

もともと生物学方面に進むことを夢見て中学時代を送り、高校に入ってもまだその気でいたのに、様々な事情で国語教師へと進路変更を余儀なくされたぼくは、国語を教えることに自信がなかった。大学も空前絶後の大学紛争の真っただ中に入ったので、ろくな勉強もせずに、いきなり教壇に立った。まるでずぶの素人の国語教師となったぼくが、その後42年間もその職を何とか続けることができたのは、あの時、阿部先生に「褒められた」ことが、大きな支えになっていたからだと思う。ぼくの国語教師としてのモデルは、阿部先生を初めてとする、豪華絢爛たる栄光の国語教師陣だった。だから教室で生徒たちに、ぼくは半分冗談で(ということは半分本気で)、「オレは高卒教師だ。」と言って憚らなかった。それほど、栄光の国語教師の恩恵は大きかったのだ。

阿部先生がどんな先生だったかを、ぼくが語るまでもなく、多くの卒業生が深い印象を心に刻んでいると思うので、細かく書く必要もないだろう。それでもあえていえば、「厳しくて暖かい先生」ということになるだろう。それも「厳しさ」のほうが心に強く残る。それは、在学中の印象だけではなく、「同僚」としての阿部先生においても同じだった。無口で、気むずかしいところもあった先生の、たとえば国語科の会議における一言は、まさに「千鈞の重み」をもっていた。それは頑固ということではなく、先生の言葉の一言一言が、その場の思いつきではなく、深い学識に根ざしていたからだ。

あるとき、国語科研究室で、先生が「うらやましい」という漢字を書けるかと聞いてきたことがある。そう改まって聞かれると、不安になって、おそるおそるその漢字を紙に書いたところ、ほら、やっぱり間違えるんだよなあ、とニッコリ。「羨」の下の部分を、「次」と書いたのだが、なんと左側の部分が「ニスイ」ではなく「サンズイ」だと言うのだ。慌てて辞書で調べてみると、そのとおり。その後、数人の国語教師に書かせてみたが正しく書けた者はひとりもいなかった。先生は、そんなこともさりげなく教えてくださったのだ。ぼくはそんな先生の深い学識にどんなに憧れたかしれないが、結局、追いつくことなどできないままに退職してしまった。

 阿部先生のことで、もうひとつ、忘れられない思い出がある。高3の授業のときのことだ。先生の担当は、国語の「演習」だった。「演習」と呼んではいなかったと思うが、要するに大学受験のための問題演習の授業だった。ある日、問題の解説をしているときに、ポツリと「こんな問題演習なんてしてないで、西鶴とか近松なんかをじっくり読みたいんだけどなあ。」とおっしゃったのだ。そのときの沈んだ声の調子をぼくは今でも鮮明に覚えている。受験体制の中での無味乾燥な授業を否応なしにやらなきゃならないことへの嘆きというか不満というか、そうした気持ちがにじみ出ていた。ぼくは、受験一色に染まっていく学校生活が嫌で嫌でたまらなかったので、その言葉を聞いて、思わず心の中で叫んでいた。「先生! そんなふうに言ってないで、近松でも西鶴でもやってください!」と。

もちろん、そんな思いは届かなかった。届いたとしても、そんな授業が実現するはずもなかった。けれども、先生がそうした「本音」を、生徒にもらしたこと、(もらさざるをえないほど辛かったこと)は、当時のぼくには救いだった。先生が決して受験一本槍の授業でいいと思ってはいないのだということが分かって、そして先生も辛いのだと分かって、ぼくもなんとか受験生の生活に耐えていけるような気がしたのだと思う。

先生と同僚として働く日々の中でも、先生は時々、心の中の鬱屈をポツリと話されることがあった。ぼくも先生とはおそらくは違ったにしても、やはりぼくなりの鬱屈を抱えて暮らしていたので、そうした呟きがいちいち心に響いた。もちろん、そうしたことについて先生とそれこそ「腹をわって」お話しすることなどかなわないことだった。ぼくにとって阿部先生は、いつまでも尊敬する恩師であり、その心の奥まで踏み込むことなど畏れ多いことだったし、先生もそんなことは決して許す人ではないように思えたからだ。

けれども、先生がお亡くなりなった今、もう少し、先生とじっくりと、人生について、教育について、文学について語り合いたかったなあとつくづく思う。それには、ほんの少しの勇気があればよかったのだ。国語科旅行で、酒を飲んで楽しそうに笑う先生の写真をみるたびにそう思うのだ。

山本 洋三 (16期)

(国語科研修旅行での一コマ)