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学園だより栄光の軌跡 あの卒業生を訪ねて

広報部では各界で活躍されている卒業生の方にインタビューを行い、会報と同窓会ホームページとで連載してまいります。

第1回: 大河原毅氏(11期)

栄光11期 大河原毅氏を訪れました。誰もが知るあの「ケンタッキー・フライド・チキン」を育てた方です。本企画「栄光の軌跡 あの卒業生を訪れて」の初回に相応しい、「栄光愛」に満ち溢れたインタビューとなりました。

栄光で心に残ったことはと質問すると、出てきた答えは、『落第』でした。正直意外でした。

ケンタッキー・フライド・チキンの元社長で、今は、上場企業ジェイシー・コムサのCEOという錚々たる経歴の方から、まさか『落第』という言葉が出てくるとは思いもしませんでした。

大河原さんは、実は栄光に入学した中学一年生の時から、既に初代フォス校長にかわいがられていたそうです。それもそのはず、7つ歳上の兄が栄光2期生におり、地元でも名家で知られる大河原家でPTA会が行われていたとのことで、ご自宅にいつもフォス校長がジープに乗っていらしていたそうです。

ところが、中学時代真面目に授業を受けても、いつも成績は学年でビリで、学校から「落第」の判子を突き付けられてしまいました。しかし、その時、人生を変える一言が父親からありました。

「君は奥手だから」と。

兄は東大。自分は、栄光でも成績ビリ。父がなぜ、その言葉を使ったかは、いまだに判らないそうですが、自分なりに非常に納得をした言葉だったそうです。

「そうか、兄はウサギ、自分はカメなんだ。」そう解釈をした大河原さんは、『今、自分は落ちこぼれていても、絶対に大学はケンブリッジ、ハーバード、オックスフォードのどれかに行こう!』と決めたそうです。

栄光でのエピソードを、大河原さんは話し始めました。「あのころ、放課後になるとスポーツをやっている連中は、掃除の時間なのにコート取りに向かっちゃうんだよね。自分ひとり残って何をしたかというと、雑巾洗いをしていたんだよ。数枚の雑巾じゃない。教室に20枚ぐらいの汚い雑巾があってね、それを毎日、ピカピカになるまで1人で洗って、水道のところにかけていったんだ」

誰から言われたわけでもなく、ほんとうに「掃除=趣味」だったそうで、黙々とやっていたとのこと。実は、この「掃除」が今の経営学でも活きているそうです。

小さいことでもコツコツと積み上げていくということ。「自分はあるとき気が付いたんだ。同じ学校の中で、同じことを先生が言っているのを聞いて、それでも自分は180人中ビリ。頭のいい人は本当にいるものだと。世の中でも、頭のいい人は上から目線で思ったり、話したりする人もいるかもしれない。でも、最初から僕は違ったんだよね。ビリだったから、上から目線なんて出来ない。

僕は、本当に一番下だったので、「いいところを見つける」「自分より魅力ある人と一緒にやっていきたい」って気持ちが自然と身についたんだと思う

出来る人は、瞬時に判断できるから、会社で言うと短期的に収益が上がるとか、自分のメリットが無いことを、すぐに判断することをするかもしれない。でも、自分はいいものを追求して、一歩先は損かもしれないけど、長い目で見れば得するものをコツコツと積み上げることが好きなんだ。そうあの頃の掃除のようにね。ケンタッキー・フライド・チキンの社長。誰もが輝かしい経歴と思うかもしれないけど、実は1店舗目を作ったときは、苦労の連続だったんだよね。」

1店舗目をオープンしても売れない。2店舗目も売れない。

でも、大河原さんは信じていました。「売上は悪い。ただ、このフライド・チキンは本当においしい。絶対に成功する」と。

当時から優秀な人材には恵まれていたので、その人たちと日夜考え、中長期的な目線で店舗運営を効率化し、ようやく4店舗目から芽が出始めて、そこからあの掃除のようにコツコツと店舗拡大を繰り返していったのだそうです。

今では全国区のケンタッキー・フライド・チキンですが、これまで山あり谷ありの経営だったとのこと。

「顧客視点で『安全でおいしいフライド・チキン』の提供をしていても、株主総会では『経営目線でコストカットを考えると、輸入の鶏を使ったほうが良いのでは?』と厳しい指摘も多かった。短期的な目線でコストカットだけを考えると、そうだったのかもしれない。

ただ、自分は国産の新鮮な鶏でいかにおいしいフライド・チキンをお客様に食べていただくか。それしかないと考えていた。」

会社にお金があると、派手なことをやりたくなる。ただ、ケンタッキー・フライド・チキンは派手なイベントや広告プロモーションを敢えてやりませんでした。一歩ずつ、一歩ずつ。大幅な利益を上げるビジネス・モデルではなくても、顧客のことを考え、信じ、着実にやっていく

そんな大河原さんの経営方針が、店舗数を拡大していったのでしょう。

「経営をするのも、自分自身も含めて、一番大切にしているものは「人」である。

苦難を乗り切ったのも、自分の周りの人のおかげ。乗り切った後に、喜びを分かち合ったのも、自分の周りの人。」

今では、ケンタッキー・フライド・チキンを退職されて、別の会社におられるが、今の会社でも傍で支えてくれている人は、実はケンタッキー・フライド・チキン時代の人たちだそうです。

「栄光の卒業生にも、「人」を大事にして、周りにいる方への感謝の気持ちを忘れずにいてほしい。人生の中で苦難は必ずあるものだし、その苦難を乗り切るためには、必ず自分のことを信じて、また自分も信じられる「人」である。

栄光学園のアイデンティティは、時代や世代を越えても、脈々と受け継がれている」

栄光学園で学んだ、助け合える精神こそが、今の日本経済の不況を乗り切れるキッカケになるのではないでしょうか。

■大河原さんご経歴

1963年 栄光学園高等学校(11期)

1984~2001年 日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社 代表取締役社長

現 株式会社ジェーシー・コムサ CEO

大河原毅氏(11期)

“あの”カーネル・サンダース氏と

大河原氏とインタビュアー米田(44期)

第2回: 鈴木久仁氏(17期)

今回は、17期の鈴木久仁氏。現在、あいおいニッセイ同和損害保険株式会社の代表取締役社長を訪問させていただきました。

栄光学園での思い出をうかがうと、真っ先にでてきたのは『サッカー』でした。今でも毎年、サッカーの同期とは年に数回集まって語り合うそうです。中学ではセンターバック、高校ではボランチのポジションだったという鈴木社長。『サッカーを通して、本当に色んなことを学んだ』とのこと。

1.「後ろの声は神の声」

たとえば、キーパーには無条件で従えという意味。キーパーは自分が見えないことを客観的に見ている。目の前のことに捕らわれないで視野を広げることが大切。

2.「ストライカー」

ストライカーは点を取ることが仕事。海外には味方からボールを奪ってでも点を取るような選手もいた。日本は「和を以て貴しとなす」ということなのか、どこか相手を気遣い、言いたいことがあっても言わないような人もいる。いざというときは、ストライカーが点を取ることに突き進むように自己主張をすべきだ。

サッカーの話を楽しそうに話す鈴木社長の話に、私も自然と引き込まれていきました。

そして、話は初代校長のフォス先生に移りました。

「フォス先生はね、『人の役に立て』ってよく言われていたんだ。中学と高校の時は、『何を言っちゃっているの?』という感じで分からなかった。先生に聞くと『人の役に立つ』とは、例えば『教師になる。医者になる。神父になる』そんなことだと。」

それでも、当時の鈴木社長には自分事にならず、その意味さえ分からなかったそうです。

また、ある時、栄光のOB会でも、こんなエピソードがあったようです。

「フォス先生に名刺を差し出した先輩がいたのですが、その時フォス先生が一言。『それで君はいったい何の役に立っているんだ』と。その先輩は、名刺をやや得意げに出されていたので、褒めてもらえるつもりだったのでしょうね。それが突然、『君は何の役に立っているのか』ですからね。その先輩は、絶句してしばらく呆然としておりましたよ。でも、『人の役に立て』この言葉の意味が分かってきたのは、本当に最近でね。自分が大学生のころなんて、『教師』なんて選択肢は全くなかったし、興味すらなかった。『教える』ということに興味も無かったから。ただ、この歳になると、『人の役に立つ』と言う言葉がようやく分かってきた気がする。なるほど、自分が出来る『人の役に立つ』こととは、若い世代に自分の想いや得てきた経験を伝えることなのだと。

今は、会社の若い人にもよく言うんだ。『自分ひとりで生きていくのは、むなしいよ。1人にでも役に立つということを意識しなさい。人に役に立つのは、自分の幸せのためなんだ。そういう意識が、女房はありがたい、友達ってありがたいなという意識になるんだ。』とね。

会社というのは、『世の中のためにならないといけない』と思う。『世の中のためになること』を続けないといけないし、続けるためには儲けないといけない。」

インタビューをさせていただいた私も小さいながら一経営者として、自分の中で非常に腹落ちをした瞬間でした。会社の中で大切なことは、『人・後輩を育てる』、『役に立つことを続ける文化を作る』。その2つを、継続的に実践して会社を続けていく必要がある。

インタビューの最後には、栄光のOBの方へのメッセージを伺いました。

「栄光は、『人を育て続けてきた学校なんだな』と思っています。繰り返しになりますが、『人の役に立つ』ということ自体、20代、30代はがむしゃらに仕事をしていたので、意識すらしていなかったというのが正直なところです。ただ、40代、50代と年齢を重ねて、ふと落ち着いてみると、良い言葉だとしみじみ思います。20代、30代の方は、まだまだ『人の役に立つ』ということが実感できないかもしれませんが、40代、50代の方には、是非次の世代に自分の想いや経験を伝えて、『役に立って』いただきたいと思います。」

今でも、フォス先生の『それで君は何の役に立っているんだ』という言葉が耳に響いているそうです。会社の経営者として、一人の人間として。『役に立てる』ことを追求していこうと私自身も誓いました。

■鈴木さんご経歴

栄光学園中・高の第17期生。1969年4月早稲田大学商学部入学。1973年3月同大学卒業後、4月大東京火災海上保険株式会社(現あいおいニッセイ同和損害保険株式会社)入社。総合企画部長などを経て2001年4月あいおい損害保険株式会社執行役員経営企画部長に。同社常務取締役、専務取締役などを経て2010年4月代表取締役社長。同年10月あいおいニッセイ同和損害保険株式会社代表取締役社長に就任。14年からMS&ADインシュアランスグループホールディングス株式会社 代表取締役会長

一般社団法人 日本損害保険協会の会長も勤める

鈴木久仁氏(17期)

左より菱沼同窓会長、鈴木久仁氏、インタビュアー米田

第3回: 木村浩一郎氏(30期)

今回は、4大監査法人の1つ、PwCあらた監査法人の代表を務められる30期の木村浩一郎さんにインタビューに伺いました。

監査法人という特殊企業体の代表、数々の有名企業を監査し、その経営者と対峙してきた木村さん。栄光の思い出から日本経済まで、様々なお話を伺うことが出来ました。

栄光学園の思い出は、部活に明け暮れていたとのこと。軟庭部に所属し、本当に部活中心の生活で、部の同期といつも一緒。そんな同期の『友情』は色々なところで感じていたそうです。

「休みの人がいたら、誰かがノートを代わりに書いてあげて、机の中に入れておく文化。栄光には、自然と『友達同士で助け合って生きている文化』が根付いていた。」

部活と同じぐらいに印象に残っている思い出は、中学3年生の時に読売新聞主催の英語弁論大会で全国大会に行ったことだそうです。当時、『高松宮杯』と言われた由緒ある弁論大会。

「今でも、覚えているよ。『Ladies & Gentleman, 』で始めるのではなく、『Friends,』と威勢よく始めてね。テーマは、栄光に根付いていた、『友情』。本当にいい経験でした。」

「『Men for others』という言葉は、学園内にいた時はそれほど先生方から言われていなかった。そのかわり、当時の校長含めて、色々な先生に常に言われていたことは『やるべき時に やるべきことを きちんとやる』。中高時代に繰り返し聞いてきたことは、本当に人生の中で大きな存在になっていますよね。

自分でも、びっくりするぐらい、今までの人生に活きている。いや、『埋め込まれている』と言っても良いほどだ。もちろん、『人のための人であれ』というアイデンティティも同様です。」

監査法人という仕事は、個人の名前で様々な企業に向き合っている。その会社の知識だけでなく、グローバルな視点から幅広い知見や洞察をしっかり持つ必要がある。監査の品質を上げることで、付加価値を提供し、企業やステークホルダーに貢献する。監査法人というお仕事、普通の方は、接点がある職業ではないですよね。

木村さんの仕事を通しての夢は、本当に大きく突き抜けていました。

「監査法人の役割は、ひとつの企業の監査をするにとどまらず、『世界から見た日本企業の価値向上』=『日本経済の活性化』 ということなんだ。

だからこそ、社会に対して信頼を構築して、日本企業が世界に飛躍できる環境を作ることが夢。大きな仕事に取り組むからこそ、真剣に。」

インタビューをしていて、気が付いたことがありました。インタビューの答えが、短文明快。『伝えている』と言うより、『伝わってしまう』と表現した方が良いのでしょうか。

声のトーン・目線・言葉のチョイス・笑顔・話す時の間などなど。質問に対して卓越した表現の答えを用意していただいている。経営者とのお仕事も多い中、短い時間で明快に伝えることを実践してきたからこそなせる、“匠の技”なのでしょう。

話を『アイデンティティ』に戻します。 木村さんにとって、栄光学園のアイデンティティ『人のための人であれ』とはどういうことでしょうか。

「正直、『人のための人であれ』でないと、組織のトップとしてはもたない。『自分のためにする仕事』だと、失敗にも気づかないし、部下もついてこない。相手先の会社や相手のことを思いやり、考えるからこそ、自分も頑張れるし、日々の仕事が素直に出来ていることに繋がる。

特に、監査法人という職業においては、強くそう思っています。」

最後に栄光OBに対するメッセージを伺いました。

「Men for othersという刷り込み / 英語力(外国人とわけ隔てなく話せる) / 人との繋がり。 この三つが栄光学園のOBの財産だと思う。

監査法人という仕事をしていて、もちろん金融庁などともやり取りをする。過去の金融庁長官にも、栄光OBがいらっしゃいますし、『この人すごいな!』と思ったら栄光OBだったという経験も多々ありました。

お互い栄光学園OBと知るまではよそよそしいのに、栄光学園卒と分かったとたん、心を通じて話が出来る。『共通の土台』から生まれた安心感がそうさせるのでしょう。

本当に、たくさんの優秀な人が、色々な業界・業種で活躍されています。だからこそ、栄光のOB(特に若い方)は、どんどん積極的に自分を放り出して、色々な場に参加してみて欲しい。きっと、そこで会った『すごい人』に栄光OBの方がいると思うから。」

***弁論大会の木村さんの締めの言葉***

(友情に対する話の後)

Now, it’s my turn to help and encourage others when they are in need.

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「栄光若手OBの皆さん、助けが必要な時は先輩方が、絶対に助けてくれます。色々な先輩の方に、どんどん会いに行って下さい。きっと、かけがえのない出会いが待っています。自分を解き放ち、もっともっと栄光の先輩方と交流を!!」

木村さん、長時間のインタビューありがとうございました。

■木村さんの略歴

1986年 公認会計士2次試験合格、青山監査法人入所

1993年 Price Waterhouseシカゴ事務所勤務

2000年 中央青山監査法人代表社員

2012年 PwCあらた監査法人代表執行役

経済同友会幹事、日本取締役協会幹事

木村浩一郎氏(30期)

第4回: 五十嵐健夫氏(39期)

39期の東京大学教授五十嵐健夫氏を研究室に訪問しました。五十嵐さんの専門分野は、「コンピュータサイエンス」という領域。言葉を聞いただけでも拒否反応を示す人も多いと思うが、私もその1人。五十嵐さんは、私にも分かるように丁寧に解説してくれました。

コンピュータサイエンスは大きく、「理論」、「システム」、「応用」の3分野に分けることができ、五十嵐さんが研究を進めているのは「応用」という領域だそうです。グラフィックや人工知能などもこの領域に入るそうで、特にコンピュータのアプリケーションを使いやすくするためのユーザインタフェースの研究をされています。

最初に栄光の思い出について伺いました。

「まず、入学した時にキャンパスが広くて立派だったのが印象に残っている。今の生活が、ビルに囲まれた東京暮らし・東京勤めなので、緑がいっぱいで解放感のあるキャンパスが懐かしい。当時は認識していなかったが、最高の贅沢だと感じている。」

中高時代は、記念祭で装飾を担当したのが良い思い出とのこと。

「講堂にあがる大階段や、校舎の1F-3Fの階段のガラス窓全面やレストランの内装などの絵柄をデザインし、製作した。後輩の中学生に指示して製作したが、今思えば、あれが人を使って仕事をしてもらう最初の経験だった。パンフレットのデザインもしたし、図書室の広報誌の絵も描いていた。」

ただ、実は栄光の学生生活は、プログラミングを独学で学びゲームを開発する毎日だったとのことで、「夕方家に帰ると、1人部屋にこもり、夜中までゲーム作り。本当に毎日毎日。高3の受験勉強期間に入るまで、親が心配するぐらい没頭していた。」

当時はまだPCソフトも充実していなかったので、絵を作るためのエディタ、ディスクを読み書きするドライバ、MAPを作るエディタなどのソフトを含めて、自分1人で作っていたそうです。ゲームは高校3年生になるまで作り続けていたが完成にはいたらず。当時市販されていたゲームと同じぐらいのクオリティになっていたが、世の中に出ることは無く、今もご自身のPCにひっそりと眠っているとのこと。

「教えていただいた先生方で印象に残っているのは、専門科目が本当に好きなんだなぁということだ。数学の先生は数学の問題や解法の話をしているとき楽しそうだったし、生物の先生や物理の先生も楽しそうに話をしていたのが記憶にある。今の望月校長は韓国の話ばかりしていた気がする。

お世話になった先生は、ラビ(関根先生)。「英語」が好きという感じではなかったが(笑)、教育熱心だった記憶があります。自分が学問の道に進んだのも関根先生の影響があると思うし、感謝している。

東大に入学した後、栄光の同級生には優秀で、洗練された人がいかに多かったかをあらためて実感した。

今では、論文を読むのも書くのも、学会での発表も議論もすべて英語なので、栄光時代に、テープを繰り返し聞いて学ばせてくれた英語教育には感謝している。」

「コンピュータサイエンスの魅力は、画期的な技術を開発すれば、すぐに世界中で使われるようになる可能性があること。今や、世界中のほぼ全ての商品にコンピュータが関わっていると言っても過言ではない。そのようなコンピュータの能力を向上し、利便性を高めることは、そのまま我々の生活や文化の向上に役立つと考えて、研究開発に取り組んでいる。

いま取り組んでいる研究の目標は、欲しいものを自分自身で作れる環境にしていくこと。現代社会は、大量生産と大量消費。世界中が同じものを見て、同じものを使っている。コンピュータを使って、素人でも自由に衣服や家具などをデザインできるようにすることで、より自由で豊かな社会を実現していきたいと考えている。」

過去の研究では、「2D」で描いた絵を簡単に「3D」にする技術とか、平面の絵を簡単に動かしてアニメーション化する技術を開発していて、既に商品化され、広く使われているものもあるそうです。

キーワードで言うと、「コンシューマ・ジェネレーテッド」、「プロシューマ」、「メーカーズ・ムーブメント」といったもので、このような技術が日本経済や文化の活性化につながることを願っているとのこと。

「例えば、3Dプリンターが普及した時に、日本が技術の先導役になっていて欲しいし、将来には日本にもチャンスはまだまだたくさんあると考えている。

最近のニュースで、東京大学が国際大学ランキングでアジアNo.1の座から落ちたということを聞いた。日本は、技術の面でも他国にも決して負けてはいけない。技術者として、日本のために少しでも貢献していきたい。」

そんな話を伺って五十嵐さんの、強い心をもって研究開発に取り組んでいらっしゃる姿勢を感じました。

最後に、栄光OBへのメッセージを伺いました。

「(自分が大学の教員をしているので、その立場からの意見になるが)最近の若者にとっては生きづらい社会になっているのではないかとの危惧がある。物質的には豊かに便利になっているものの、長期的には、これ以上の繁栄があるというよりは、緩やかな下り坂なのではという、漠然とした不安がある。

また、過度につながった情報化社会の中で、自分の生き方に自信が持てなくなっているようにも見受けられる。直接的には、東大でも平均して学生の1割程度が、鬱や引きこもり、経済的理由などでドロップアウトしており、社会問題といえると思われる。

別件だが、就職活動が過大な負担になっているのも問題である。簡単な解決策はないし、私がどうこう言える立場ではないが、われわれの社会の未来を支える若者が厳しい状況にあることを理解し、皆さんがそれぞれの立場でできることを考えていただけると嬉しい。」

現在、理系職ではない私は、五十嵐さんのような研究者と話す機会など無い。今回のインタビューを通して、やはり日本を見えないところから支えているのは、五十嵐さんのような研究や技術開発を進めている方なのだと強く感じました。

■五十嵐さんの略歴

1991年 栄光学園高等学校卒業。

1995年 東京大学計数工学科卒業。

2000年 東京大学情報工学専攻博士課程修了。博士(工学)。

2002年 東京大学大学院情報理工学研究科講師就任、2005年同助教授、2011年教授。

2007~2013年 JST ERATO五十嵐デザインインタフェースプロジェクト総括。

IBM科学賞、学術振興会賞、ACM SIGGRAPH Significant New Researcher Award等受賞。

ユーザインタフェース、特に、インタラクティブコンピュータグラフィクスに関する研究に取り組んでいる。

五十嵐健夫氏(39期)

第5回: 桃井恒和氏(13期)

今回、ご訪問させていただいた先輩は、13期の読売巨人軍代表取締役会長の桃井恒和さん。

栄光入学は、昭和34年。1年上の先輩が栄光に入学したことがきっかけとなり選んだ学校であったとのことだが、衝撃だったのは中学1年生の時に味わった「強歩会」だったそうだ。

「競歩会」とは、当時、三浦半島を中学生は30km、高校生は40kmを走る大会だったそうだが、もちろん中学1年生でそんな距離を走ったこともない桃井さんは、足に豆を作りながら、「休んだら終わりだ」という想いで久里浜から逗子まで3時間06分で完走したとのこと。

栄光の思い出に関して、そっと話し始めた。

「そんなに、これだ!!ということは実はないのだけれども。先生は、とてもユニークな方が多かった印象がある。生物の山本先生、数学の宇佐美先生。今でも、思い出しますね。

特に、勉強もトップを進んでいたわけでもなく、平均的だったかな。物理は特に苦手でね。高3で模擬テストっていうのがあったときに、今でも覚えているのだけども、50点中5点を取ったんだよ。そしたら、当時「東京オリンピック」があったときだったからか物理の先生からは、『桃井君、テストはオリンピックと違って、参加することに意義があるわけではないんだ』って言われてね。すごく印象に残っているよ。」

インタビュアーは44期で大船世代。フォス先生も既にいらっしゃらなかったし、神父さんもだいぶ減ってきた時期だった。桃井さんは、ずっと田浦で学生時代を送っていたのだが、その印象を聞いてみた。

「田浦はね、やっぱり海だよね。軍港があって、潜水艦が見えて、時々汽笛が鳴るんだ。海沿いにユーカリの木が生えていてね、匂いが今でも蘇るな。神父さんからは「公教要理」というキリスト教に関する講義を受けていてね。当時は、在学中に信者になる人が本当に多かった。入学したときは20名ぐらいの信者が、卒業するときには学年の半分ぐらいになっていたと思う。とにかく神父さんは、ちょっとしたことに細かくてね。生活態度、授業態度など常に注意されていた。そんな中、フォス先生は、まさに『日本の父』といった感じで、遠くから見ている感じだったな。当時は、成績優秀者は学年が終わるときに、表彰をされていた。たしか、90点以上はAオナス、80点台はBオナスという感じで。ただ、勉強だけでなく「操行」と「礼儀」という評価もつけられていて、優良可で採点されていた。仮に勉強が出来ていても、授業態度などの行いが悪いと、AオナスやBオナスが取れないんだ。順位を明確にして、終業式の時に壇上で発表。そういう意味では、親も生徒も先生も本音で言い合える環境が自然にあった気がする。」

そんな学園生活を送っていた桃井さんは、栄光時代から既に「新聞社で記者になりたい」という夢をもっていたそうだ。当時、NHKで「事件記者」という人気ドラマの中に、人情味あふれる新聞記者がおり(昭和34年、初めてテレビがご自宅に来たときに)、ずっと楽しみに見ていたのがキッカケだったとのこと。

大学時代は、ちょうど大学紛争の真っただ中だったのだが、縁あって読売新聞社に入社した。

横浜支局のある桜木町で、6畳1間に新人記者3人が寝泊まりする生活を経験。そこから約34年の新聞社生活のうち27年が社会部記者だった。記者時代を振り返って、こんなことを話していただきました。

「記者としては、戦後の節目の出来事に立ち合い、とても幸せな仕事をさせてもらった。ロッキード事件、国鉄の分割民営化、昭和天皇崩御……。田中元首相逮捕と天皇崩御の号外を書いた時のことは昨日のように思い出す。とくに天皇崩御の時は111日間も家に帰らずホテル住まいだったから。本当に貴重な経験だったと思う。」

「そこから、社会部長、編集局次長、総務局長などを経験させてもらったが、2004年の夏に急に辞令が舞い込んだ。当時明治大学の選手への金銭授受の問題で、読売巨人軍の社長、代表が解任となり、明日から、代わりに巨人軍の社長という職務についてくれという突然の辞令だった。ちょうど球界再編問題で選手会がストを打つ激動の時代。苦労はしましたね。記者はスクープ記事を抜かれたら自分の責任が多い。しかし、こと野球に関しては、自分ではどうしようもないことも多い。年間80試合以上スタジアムに通いながら、いかに巨人がファンの方に受け入れられ、勝ち続けられるかを考えぬいた。巨人だからこそ、メディアの風当たりも強くプレッシャーもそれはあった」

実は、巨人軍の社長に就任した当初は球団内で「中高時代に野球をやっていた」とは言わなかったそうだ。プロもいて、プロを目指していた人もいて、そんな中、ちょっと恥ずかしくて隠していたとのこと。ただ、とあるキッカケで、栄光野球部の同期から会社に電話があって、社内に桃井さんが野球をやっていたことがバレてしまったそうです。

私が驚いたことは、まだ当時の栄光の野球部メンバーと集まって野球をやっていらっしゃるとのこと。69歳ですよ!!皆さん、信じられますか?

野球部の同級生が50歳でお亡くなりになり、その十三回忌の年に、弔い野球をしようと始めたのがキッカケだったそうです。今でも、野球部同期とは毎年3回は集まるとのこと。

「最近ではね、試合をやる前に練習日まであって。1回の試合だけでも大変なのに、練習もまたこれが大変なんだよ。同世代の巨人のOB選手を毎回1人は助っ人に呼んで試合をするのだけど。集まると、50年前に戻って、毎回くだらないことを言って笑っているよ。」

インタビュー当初、「栄光の思い出かー。うーん。」と悩んでいた桃井さんでしたが、高校時代の野球部同期の話をしている時には、本当に素敵な笑顔で話してくれました。

最後に、恒例の「今の栄光生へのメッセージ」を伺ってみました。

「自分の頃の栄光は、学費がすごく安くて、だから私のような裕福でない家の人間も栄光で学ぶ事が出来た。今は学費も高くなり受験準備にお金をかけられる家庭の子でないと、栄光に行かれなくなったのではと想像している。私が通勤時などに大船駅周辺で現役栄光生を見て感じるのは、みんな一様に、恵まれた家庭の出身といった雰囲気の子供たちばかりだなということ。私たちの時代は、親の職業もさまざま、貧富の程度もさまざまだった。今でも外の世界に目を転ずれば、色々な階層の人間がいてそれで社会が成り立っているわけで、後輩たちには、自分たちの周りにいる栄光生のような人間がすべてではない、自分たちとは全く違う、あるいは自分たちよりはるかに恵まれない環境で生きている人間がいっぱいいるんだ、ということをぜひとも意識できる人間になってほしい。」

読売巨人軍という日本の中で文化として根付いた企業を率いている桃井さん。

1試合で勝った負けたの一喜一憂ではなく、未来を見据えた発言に、夢中になってインタビューさせていただきました。

■桃井恒和氏 略歴

1970年 読売新聞社入社

2000年 東京本社社会部長

2002年 同編集局次長

2004年 同執行役員総務局長

2004年 読売巨人軍 代表取締役社長

2014年 読売巨人軍 代表取締役会長

桃井恒和氏(13期)

広報部 米田 哲郎 (44期)