学園だより熊の子会の終焉

熊の子会発足と第1回熊の子会については2005年10月20日発行のALUMNI No.64で紹介したが、誠に残念ながら閉幕せざるを得なくなった。ここにその事情を報告する。

熊の子会は昭和25年度中2C組のクラス会である。熊野忠敬先生が昭和24年3月、栄光学園に奉職された翌年初めて担任されたのがこのクラスで、校庭での記念写真ではフォス校長、ヘルヴェック副校長、熊野担任を40名の生徒が元気よく囲んでいる。これ等の生徒達が平成15年に熊野先生を囲んで熊の子会を結成した。(於横浜青葉台のホテル、青葉台フォーラム)。その内訳も、3期卒23名、同物故者5名、4期卒3名、転校生6名、同物故者2名、同消息不明者1名。

最初の2年は、細矢治夫(中2C組級長)、新井雅夫、伊東清行、故稲薬高久で幹事を担当していたが、その後は残りの者も持ち回りで幹事をやるようになり、更に熊野先生誕生の10月にも幹事だけで熊野先生誕生会を開くようになった。(於青葉台のレストラン、テンドーレ)。

3期卒ではない人達も含めて栄光を懐かしく思い、また熊野先生のお人柄に惹かれてこの二つの会に出席するだけでなく、プライベートでゴルフ、麻雀、はたまた海外旅行等で一緒に交遊するなど、栄光はおろか世間一般でも極めて珍しいのではなかろうか。平成28年4月17日(日)に開かれた第13回(最終回)の熊の子会の出席者は先生も含めて10名と少なかつたが、その3分の1が3期卒以外の者だったことを特記しておく。

熊野先生の半生については上記二つの会を通じて色々お話を伺った。開幕に当たりそれを纏めさせて頂くのは意義のあることと思うので、御長男の熊野睦彦氏(19期)からお聞きしたことも含めてここに紹介する。

熊野先生は昭和2年10月26日、福岡県遠賀郡水巻町で御誕生。厳父は若い頃は警察官、その後は司法書士、信用金庫理事、工場経営など色々やられた。熊野先生は長じて今でいう進学校の東筑中学に進まれたが、小柄ながら喧嘩が強かった。お兄さんから助っ人として借り出されているうちに何時しか“木刀の忠ちゃん"と綽名されたほど。

東筑中学4年生(15歳)の時三重海軍航空隊の予科練に入隊。2年後上海海軍航空隊に配属。艦上爆撃機“彗星"の教官パイロットに。終戦直後、軍部解体までの一時期高知の海軍航空隊に転属。“彗星"も特攻機に使われていたので、教官という身分が先生の一命を助けた。

昭和21年4月、日体大社会体育科に入学。優れた競技記録を色々お持ちだが、第3回福岡国体での床体操優勝が最高位。奥さまは日体大の同級生。2男2女を得て円満な家庭生活。

御長男と御次男はいずれも栄光生(19期と25期)。息子を誰一人として栄光に入れられなかった3期生から見たらは大変まぶしいことである。御長男は日本鋼管へ勤務。現在は趣味のテニスを楽しんでおられる。一方御次男は東大教授文学部長(倫理学科)である。

先生は新卒として昭和24年3月栄光学園へ奉職。同期奉職は森本先生(社会)、向井先生(英語)、堀口先生(数学)、人見先生(国語)。同じ新卒として熊野先生の親友であった堀口先生はその年の夏休みに河口湖で遊泳中に急死された。

後年、栄光の創立以来不動の訓育主任であつたシュトルテ先生の後任として60才で定年を迎えるまでその重責を果たされた。

先生の隠された御趣味は音楽で、奥さまやお子さん達とよく「ともしび」、「トロイカ」、「雪の降る街を」を愛唱されていたという。マンドリンと尺八の演奏がお得意で、退職されてからはこれにフルートが加わった。

さて、そろそろ最終回熊の子会の報告に入ろう。この会は最初から熊野先生を囲むクラス会として発足したが、熊野先生も昨年10月で米寿を迎えられた。会が自然消滅するのは余りにも淋しく、熊野先生の御出席が難しくなる前に、また、生徒達にもまだまだ元気さが残っているうちに開幕を計ろうという方向性が第11回熊の子会で出された。先生の御高齢問題だけではなく我等も今年の誕生日で傘寿を迎える。既に第1回から今日までに徳江陞(中2C組副級長)、大塚慎一郎、稲葉高久、青池博、相川一博、鈴木成一の6名が亡くなっている。その都度、熊の子会の冒頭で黙祷を捧げてきたが、この際改めて御冥福をお折りしたい。

2、3年前までは、熊の子会は約7割、誕生会は約8割の高出席率であつたが、最終回は種々の事情から4名の直前欠席者が出て、残念ながら数の上では淋しいものになってしまつた。出席者は、青木誠孝、赤徳幸男、新井雅夫、伊東清行、加倉井孝臣、(久保敬―)、島崎典彦、野崎 襄、細矢治夫、松野文夫。久保は最寄りの駅まで来たものの当日の強風のため交通手段が遮断され結局出席を諦めて帰宅。これだけは如何ともし難い不可抗力。本人もさぞかし無念だったと思うので括弧付きで名前を記録に留めておくことにする。

2年前から熊野先生はお二人の娘さんに付き添われて会に来られていた。今回もお二人の付き添いだったが、先生は車椅子。勿論このようなことは初めて。このところ体調が思わしくなく、前日まで寝たきりにしておられた由。「どうしても一寸でも出たいと言うので連れて来ましたが、記念写真だけ撮って頂いたら直ぐ連れて帰りたい。」とのこと。それではということで、島崎典彦に乾杯の音頭をとって貰って乾杯。先生にも赤ワインで御唱和頂いた。そして簡単なご挨拶も。花屋に電話で事情を説明し、頼んでおいた花束を特急で作って貰いそれを先生に抱いて頂いて記念撮影。名残惜しさを越えた何とも形容し難い感情の下に全員で先生の御退席をお見送りした。

熊野先生もおられず、また人数も少ないので、2卓予定のテープルも1卓に纏めての昼食懇親会ということになった。残念ながら熊野先生を囲んでの賑やかな解散式にはならなかったが、皆良く喋り非常に楽しい生涯思い出の会になった。

通常はそのようなことはやらないが、今回は特別ということで幹事OB全員宛にメールで簡単な報告を行った。広瀬徹也から「熊野先生も力を絞って駆けつけられた御様子、感動的です。参加できなくて残念に思うとともに、出席された皆さんに感謝いたします」と。また、この日熊野先生への花束贈呈の役割を予定されていた加瀬英明(熊の子会の命名者)からは「突然の体調不良のため大役を果たせず残念至極。」との返信があつた。熊の子会では誰が3期卒で誰がそうではないとの言葉はタブーであつた。然し、最後に敢えてその禁を破ると、この会の命名者自身が転校生である。

ところが、二月後の6月19日(日)に睦彦氏から「父死す。」の連絡が入った。最後の熊の子会の直後入院されたのだが、間もなく退院され、自宅療養を続けておられるのを聞き、熊野先生の更なる御長寿と御多幸をお祈りしていた矢先のことである。

でも、「最愛の妻と娘2人に最後まで看取って貰い、最後の最後まで幸せな人生でした。」という睦彦氏の御報告に我々としても辛うじて持ち堪えることができた。二月前の先生の笑顔に接することができたのが、熊の子達の何よりの慰めである。

6月24日(金)にはお通夜が、25日(土)には告別式が大和市の千代田つきみ野ホールに於いて音楽が優しく流れる中で執り行われた。

細矢が弔辞を納めさせて頂いた。また、熊の子会員の会葬者は次の通り。赤穂幸男・新井雅夫・伊東清行・(加瀬英明)・久保敬―・島崎典彦・田中英雄・野崎 襄・広瀬徹也・(細川 湊)・細矢治夫・三神喜信・松野文夫・棟居勇。加瀬は個人名による献花でのお別れ。長年の病の細川はお悔やみの言葉を添えて睦彦氏にお花料をお送りした。

熊野先生は栄光に奉職されてから奥さまと御一緒に受洗された。さがみ野霊園の墓碑には、「朝まだきわが心神をあこがれてめざむ」との一番お好きな朝の祈りの一節が刻まれている。

最後に、この熊の子会が開かれるきっかけとなったあるできごとを紹介したい。新井が64才で仕事を辞めて自宅近くに歯科医を見つける必要に追られた時、どうせならと栄光同窓会会員名簿の広告で見た石曾根歯科に決めた。石曾根 肇氏は睦彦氏と同じ19期生。ここである日突然、石曾根医師から「熊野先生ですよ。」と引き合わされた。新井は海外駐在3回、大阪勤務2回であつたため社会人になってから殆ど3期同期会に出席するチャンスがなく、熊野先生にお会いしたのは栄光卒業後全くの初めて。正直仰天した。しかし、これが熊の子会発足のきっかけになったのだから、人生はドラマだと言つても過言ではない。

睦彦氏は熊野先生同様、長年石曾根歯科の患者さん。新井はここで何回か彼とも顔を合わせている。また彼は、2年前奥さまを亡くされて御長女夫妻と入れ替わるまでは御両親と二世帯住宅。その当時は熊野先生がたまたま入院された時など、新井に電話で病状を知らせるなど熊の子会への気配りをして下さつた。

上記のような事情があつたので、熊の子会終焉のこの際一度懇親をということになり、7月28日(木)、テンドーレで16という年代差を越えて4人で積る話に花を咲かせた。

細矢 治夫・新井 雅夫 (3期)