学園だより薄田先生の思い出

14期生が中1の時、イエズス会中間期生として社会科の地理を教えられた薄田昇先生が今年1月14日87歳で亡くなられました。上の写真は一昨年、東京・上石神井の高齢のイエズス会士施設「ロヨラハウス」を訪れた際にハーモニカを演奏して下さった時の姿です。

中間期生は、イエズス会の神父になる養成期間中、修練期・哲学期と神学期の中間の1~2年間、栄光などイエズス会の学校や施設での実習生です。田浦時代の栄光には、外国人も含めて数人の中間期生が毎年交代で派遣されていました。中間期生が、授業を担当することは稀で、生徒指導・掃除当番監督などを行っていました。後日聞いたところによると、夏休み中に社会科の當眞先生が亡くなり社会科の授業担当変更により、2学期から突然中1の2クラスの担当となり、薄田先生はたいへん戸惑い、授業準備にも苦労したそうです。私には先生の地理の授業より、独特の言い方や厳しい生徒指導が思い出として残っています。

20期代前半までの卒業生は覚えていると思いますが、当時全校生徒は授業の間の休み時間、時間当番以外は全員校庭に出て、授業開始のベルとともに直立、ベルが鳴り終わってからクラス毎に整列し各教室に入っていました。この整列・入室を交代で指導するのが中間期の先生の仕事でした。薄田先生は、中1の4クラスの前に立たれ、にこやかな顔で監督・指導されていました。

私が覚えているのは先生の厳しい掃除監督です。現在でも栄光で続いていますが、トイレ掃除は交代で生徒が行います。当時は教室以外の掃除は特別掃除として中間期の先生方が監督していました。ある日、私の班のトイレ掃除監督にいらした薄田先生は我々の清掃が不十分と思われ、便器の隅を素手でこすりはじめました。田浦時代のトイレは海軍時代からものと思われが、当時としては珍しく水洗式になっていましたが、便器を素手で清掃される範をしめされる姿は強烈な印象でした。

栄光学園が田浦から大船な移転した時に、記念として発刊された「若き栄光」に、栄光時代に叩き込まれたこのトイレ掃除の習慣を社会人にもなっても続け、役立ったとする卒業生の投稿が残っています。ある先輩医師は、経営なさっている診療所のトイレは今でも自ら清掃なさっているそうです。

薄田先生は栄光を去られた後、神学を修め、1964年に神父になられ、各地のイエズス会の運営する教会(小教区)に勤められました。十数年後四谷の麹町(イグナチオ)教会の主任神父としてお会いした折には、我々十四期のことはよく覚えていてくださいました。ある先輩から、ネパールの障害児施設を建設した大木神父を明日から訪れるが、持参したいミサ用ワインを今夜どこかで手に入れられないかと私に問い合わせがありました。大木神父はネパールのイエズス会学校からボカラに移らればかりで、信徒もいないためミサ用ワインにも事欠くと「ボカラ通信」に書かれていました。そのことを薄田神父に伝えるとすぐに準備室(香部屋)からワイン2本をくださり、先輩から大木神父に届けることができました。栄光学園での師弟、期を越えたつながりを体験しました。

薄田神父は1982年より大阪釜ヶ崎の労働者施設「旅路の里」の責任者になられました。私が薄田神父を訪ねた時は、西成警察と労働者の対立が表面化したいわゆる「西成暴動」の最中でした。神父様はわざわざ近くの駅まで迎え来てくださり、西成(あいりん)地区を案内し、夜回りに同行、「旅路の里」にも宿泊させていただきました。その後、栄光の教員でいらした 久我神父が始めた、栄光生参加の釜ヶ崎ボランティア活動は現在も続いています。

「旅路の里」を引退後、沖縄の石垣教会に勤められていた時も、14期の1人か訪ねてきてくれたとうれしそう話していました。神父様は、最初の教え子ともいえる、14期生を何時までもいつくしみ、祈ってくださったとおもいます。

大島 弘尚 (14期)