1934年5月生まれ、
1947年4月栄光学園中学校1期生として入学、1953年3月栄光学園高等学校卒業
後援会理事長(2010年~2018年)
栄光学園70周年記念事業の際には、募金委員長も務める
山田
同窓会ホームページリニューアルの対談企画として、まず第一弾では、望月校長と私の対談を掲載させていただいたのですが、次に第二弾では何が良いかなと考えたところ、やはり1期の大先輩にお話を伺いたいなということで、本日は長年後援会理事長を務められ、学園創立70周年事業でもお世話になった徳永さんにお時間を頂戴しました。徳永さんの人生の中で、栄光学園に関わっていらっしゃった部分も大変多いと思いますので、田浦での在学時の話、後援会活動について、これからの学園に向けての話など、いろいろとお話いただければと思います。よろしくお願いいたします。
それではまず、在学時のお話をお願いします。徳永さんは栄光学園の1期になられる訳ですが、まだ学園がない中で、徳永さんのご両親も大きな決断をもっては息子さんを栄光に入れようと思われたのだと拝察します。どうして栄光学園にご入学されたのか?入学に際しての経緯をお話いただけますでしょうか。
徳永
ちょうど我々の年代が中学に入学する時は、学制が新制中学に切り替わった年でした。当時、私は横須賀に住んでいましたので、県立横須賀中学校に行きたかったのですが、同校が新制の県立高校になり、新しく中学生は採らないということがわかりました。さて困ったなと思っていたところ、この学区の子は横須賀市立坂本中学に行くと言われました。そこで坂本中学を見に行ったのですが、終戦後放置されていた元陸軍の兵舎をそのまま使うような感じなのです。窓にはガラスはないし、施設もメチャクチャ、友達と一緒に行ったのですが、とてもこれは教育という環境ではないよねと子供心にも思いました。
そうしていたら、たまたま田浦に新しい学校が出来るという話を聞きまして、友達数人と見学に行きますと、日本語をしゃべる外人、この方がフォス先生だったのですが、学校を案内してくださったのです。米海軍に接収された旧日本海軍の施設跡地ですが、ここが教室になるのだとか、ここが講堂になるのだとかいろいろと説明してくれて、とても熱心に「新しい日本をつくるためには、しっかりとした教育が必要なんだ。」とおっしゃって、聞いた我々は先生のその熱意にひかれました。家に帰って親に「田浦にこういう学校が出来るよ。行きたい。」と言ったら、「どうして?」と聞かれて、「日本語をしゃべる外人が一生懸命説明してくれたから。」、こんな会話をしたことを覚えています。
山田
当時の田浦の校舎はもともと学校施設ではない訳で、瓦礫もいっぱいあったりして、グラウンドも整備されていなかったと聞きますが。
徳永
そうですね。瓦礫のヤマでしたし、我々が行ったのは2月頃だったと思いますが、ある程度整備はされているけれども、まだ学校の体をなしているとは言えませんでした。駅からも遠かったですが、それでも、その前に見た坂本中学の旧陸軍兵舎の跡と比べると格段に良かったんです。校長先生は外人ですし、親も迷っていたようですね。
山田
最初に学校見学に行かれたのは、ご両親とではなくお友達とだったのですね。今は、受験する中学を最初に見に行くときは両親と一緒というのが一般的かなと思いますが、時代ということでしょうか。
徳永
親は生活に忙しくて、それどころではなかったということでしょう。親もその後学校を見に行きましたが、自分としては「行こう」と決めた後。細かくは覚えていませんが、親も悪い印象はなかったようで、昭和22年の4月15日の入学式を迎えました。
4月に入ってから入学試験があったのですが、翌日か二日後に合格が決まって、4月15日が入学式。結構慌ただしいスケジュールでしたね。後で聞きましたが、学校の設立認可が下りたのが3月7日だそうです。学校を設立しますという申請をしたのが前年昭和21年の12月、12月に申請して3月に許可ですから、これはすごいスピードですよね。
山田
徳永さんは、1期生でいらっしゃって先輩はいなかった訳ですが、先生方も初めての方が多かったのでしょうか。あるいは、ほかの学校で教えていた方がおられたのでしょうか。
徳永
恐らくほとんどの方が他の学校での教員経験があった方だったと思います。国語の殿村先生、数学の見山先生、歴史の藤村先生など結構年配の先生がいらっしゃいました。フォス校長は、昭和8年に日本に最初に来て、昭和11年にいったん日本を離れてアメリカに行って、昭和21年に上智大学の教授になるために再び来られたようです。そして、その方が校長になられた。シュトルテ先生は六甲学院からいらっしゃいました。
山田
フォス校長は、教育に関わるおつもりで日本にいらっしゃったのですね。
徳永
フォス校長は、上智大学で教鞭をとられるつもりで日本に帰ってこられた。若者の教育に関しては強い思いを持っていらっしゃったのだと思います。
山田
田浦の1期生として4月に入学された際には、まだ学校の整備はされていない状況だったと思いますが、授業はきちんと始まったのでしょうか?
徳永
授業は始まりましたが、机が揃ったのはぎりぎりだったそうです。入学式の前日に発注してあった東京立川の机屋さんに大型トラックを借りて机を取りに行ったのですが、机の塗装が間に合っていませんでした。トラックに塗装職人を乗せて、帰りのトラックの中で塗装作業をし、その後も一晩中作業して、ようやく朝の入学式に間に合ったという話を聞きました。当時は講堂がなかったから、大きな集会室のような場所で入学式を行いました。
山田
申請手続もギリギリですが、入学式まで本当にすべてがギリギリだったのですね。今は1学年180人前後ですが、1期生は何人でしたか?
徳永
入学した1期生は72人でした。176人が受験し、学園側は100人採る予定だったそうですが、学校の狙っていたレベルに届く生徒が足りなかったこともあり、この人数だったそうです。その後、夏休みの間に8人の補充の生徒を採って、80人となりました。そして、高等学校を6年で卒業したのは、49人です。成績が良くても出席日数が足りない生徒も進級出来なかったりしました。確かクラスでトップクラスだった生徒も、病気欠席で出席日数が足りなくて進級出来なかったこともありました。平均点が60点以上でも、英語・数学・国語の点数が65点以下の生徒は進級会議にかかったりしていました。
期末になると成績優秀者は講堂で発表されました。“オナス”といって、90点以上がAオナスとか85点以上がBオナスといった感じで成績優秀者が表彰されました。「Aオナス、何とか君」とかと呼ばれて。残念ながら私は座りっぱなしでしたが(笑)。
山田
当時から、勉強をしない生徒への評価は厳しかったのですね。私も在学当時のことを思い返すと、身につまされる思いです(笑)。私たち30期の時代にも成績優秀者が学期末に表彰されるという制度はありました。今の栄光ではそうしたことはしていないようですが、教育の仕組みも少しずつ変わっているということですね。
徳永
教育に関しては、フォス校長は「1日8時間は寝なさい、そして2時間は勉強しなさい、勉強は復習を中心におきなさい。」とおっしゃっていました。これが基本ですね。しかし、宿題とかもあってクラブ活動もあるし、勉強しているとなかなか8時間は寝られません。クラブ活動は週に2回。私は野球部でしたが、途中から出来た山岳部にも参加したりして、基本的には運動部は2つかけもち出来ないのですが、ほとんど毎日遅くなるまで運動場を走り回っていました。家に帰ればぐったりです。勉強する時間がなかった(笑)。
山田
徳永さんは野球部と山岳部に入られていたとのことですが、中学1年生の時からクラブ活動はあったのでしょうか。
徳永
実は、野球部が出来たのは私が中心になって働きかけたからなのです。私は、小学校の時に野球を始めたのですが、中学に入ってみるとグラウンドは全く整備されておらずスポーツをやるような環境ではなく、運動部はありませんでした。でも、野球をやりたかったのでフォス校長に何回か直訴しました。なかなか認めてもらえなかったのですが、中学2年のなかば頃には認められて野球部が出来ました。運動部としては一番早かったと思います。その後、体操部とかサッカー部などが出来ました。
一方、野球部は出来たけれども、道具がありません。私は知り合いのおじさんから戦前に使っていたバットとかファーストミットとかユニフォームをもらいました。一応9人分は揃ったのですが、なかにはお母さんが縫って作ってくれたものもありました。校長が米軍基地から貰ってきたバットは950グラム、大した食べ物もなかったあの当時の中学生の体力ではとても振れるものではなかったですね。バットに振り回されていた感じですよ(笑)。グラウンドにもコンクリートのブロックがいたる所にありましたので、ボールがどこに転がるか分からないし、滑りこんでも痛いし・・。それでも先生方がいろいろとやってくれてとても嬉しかった記憶があります。
山岳部が出来たのはもう少し遅くなります。山岳部ができる前、中学2年の夏頃から天狗さん(シュトルテ先生)が生徒を大山や丹沢に連れて行ってくださり、結構山登りが盛んになって、天狗さんリードのもとに山岳部が出来ました。
山田
今もある丹沢の山小屋ですが、最初からあった訳ではなく、当時は生徒も参加して作ったと聞きました。
徳永
丹沢の山小屋が出来たのは我々の代が卒業した後のことです。満州の開拓団から帰国された何人かの方が今の山小屋の近くに山に住む子供たちが集まることが出来る小屋を作ってくれていて、私たちはそこを借りて使っていました。そして後になってその近くに皆で木材を持ち寄ったりして山小屋を作ったのです。
また、我々の時代は、上智大学が松原湖の近くに山小屋を持っていて、そこに泊まって八ヶ岳の赤岳とかを登ったりしていました。まだ赤岳までのルートは山道も整備されていない時代ですから、朝の5時に小屋を出て夕方に着くとかと時間をかけて登りました。
山田
次に、学校生活についてお聞かせください。当時は、田浦の駅から学校まで歩いて通学していたのだと思いますが、通学時の礼儀についてもとても厳しかったという話を聞いたことがあります。
徳永
生徒の礼儀に関しては、厳しかったですね。学園までは、今の京浜田浦駅から歩いて15分、今のJR田浦駅から歩いて30分かかりました。距離があるため、一時期通学用の船も出したくらいです。ただし、危ないからということでなくなりましたが・・。
校門から校舎まで歩いて7-8分ぐらいかかるのですが、学校の我々に対する教育というのは、校門より中にいらっしゃる方は何らかの関係があって学園に来てくださっている方なので、スーツを着ている人に対しても作業着を着ている人に対しても、誰に対しても必ず帽子をとってお辞儀をしなさいと言われました。それも立ち止まって帽子を脱いで、それを横に持ってお辞儀をしなさいと言われました。また、生徒同士の間でも先に見かけた方がお辞儀しなさいと。当時は外出する時は必ず帽子をかぶっていましたが、学校の外でも生徒同士が会ったら、見つけた方が先に帽子をとって必ずお辞儀をしなさいとも言われていました。
また、坊主頭にしろとは言われませんでしたが、髪の毛についても注意されました。髪がボサボサの友達が注意されたり、何回注意しても髪の毛を切らない生徒がいて、朝礼で呼び出されて「散髪代をあげるから今から髪の毛を切ってきなさい。」と言われて、そのまま床屋に行ったなんて話もありました。
当時は毎日朝礼があって、その日によって、フォス校長の訓話があったり、そうでなければ服装検査も結構ありました。まず一番はズボンに折り目がきちんとついているか、服装にきちんと繕いがしてあるか。破れていたままではいけないのです。洗濯しているか、また、服装だけではなくて、ちり紙やハンカチを持っているか。現金は裸で持たずに、落とした時にわかるように財布に入れて金額を把握しろとも言われました。服装検査は結構厳しかったですね。
フォス校長は、「君たちはこれからの日本を背負っていく、作りあげていく人材なのだから、それには勉強はもちろんしなければいけないが、身だしなみもしっかりしていなければいけない。」と非常に強くおっしゃっていました。服が破れてもいいけどきちんと繕って洗濯しなさい、そういう細かな日常の生活態度にも厳しく指導されていましたね。とにかく、君たちはこれからの日本を作っていくのだからと。
山田
田浦時代の思い出、たくさんお持ちの訳ですが、田浦時代から延々・脈々と続いているのだろうと思われる栄光の「文化」のようなものがいくつかあると思うのですが、一時期無くなってしまいそうになりながらも、今でも上半身裸で続いている中間体操は、きっと何らかの形で最初からあったのでしょうね。
徳永
中間体操は最初からありました、今と同じ上半身裸です。雨が降ればありませんでしたが、冬は雪でもやっていました。まず、マーチにあわせて行進するのですが、皆の歩調が合わないと、遠くから体操の先生とかシュトルテ先生から怒られました。「誰々!足が違ってる!」と。でも、中学1年生も体育祭の頃になると、全員がしっかり揃って行進出来るようになりました。上半身裸で体操するのが珍しいのでしょう、近くの米軍基地の奥さんとか子供とかの家族が見に来たりしてました。
今も栄光の体育祭に行ってみると、プロムナードとか行進をやっていますが、当時と比べるとすごく“大らかな行進”になっているなと感じます(笑)。
山田
授業前の瞑目についても、きっと学校設立当初からあったのでしょうね。
徳永
ありました。休み時間に外で遊んでいても、ベルが鳴ったらその場で立ち止まる、一切口をきかない、そしてそのまま朝礼に整列したり、並んで教室に入りました。教室に入れば机の上に手を置いて瞑目する。授業が終わったら、外に出るまでは口をきいてはいけないと指導されました。
山田
瞑目、中間体操は栄光で70年以上も脈々と続いていて、ひとつの文化になっているということですね。
徳永
フォス校長はじめ先生方の生徒指導は厳しかったかもしれませんが、そういう厳しさの中にも、とても明るさがありました。先生方も厳しいだけでなく、自分たちも楽しそうに教えてくれたし、楽しそうにペナルティを与えてくれた(笑)。厳しさの中に温かさがありました。中学2年、3年の頃から行われた遠足で、フォス校長が米海軍基地からお菓子をもらってきて生徒に配る、生徒たちはここぞとばかり先生方に飛びつく、先生方のシャツが破れてしまって、代わりのシャツでお帰りになりました。先生方は厳しかったけれども、本当に温かかった。
山田
お菓子の話もそうですけど、当時の栄光はやはり米軍との関わりも強かったようですね。当時フォス校長は颯爽と風を切ってジープに乗っていたという話を聞いたことがあります。
徳永
授業が終わると、フォス校長はジープに乗って資材調達に米軍基地に行くんです。お菓子だけでなく、いろいろな物資を調達されていました。例えば軍隊の携帯食、山に行く時はそれを持たせてくれました。また、私は米軍の横須賀基地の近くに住んでいたので、基地に行く時は車で近くまで乗せてもらいました。私は手前で降ろされて、フォス校長は車で基地に入りますが、門番のMPは音が出るくらいに靴をあわせて校長に敬礼する。神父様に対する敬意を表してのものです。近くで見ていて、それが嬉しかったですね。
山田
そのジープも軍からのものなのですか。
徳永
佐世保の方で廃棄されたジープをもらってきたという話でしたが、真偽のほどは判りません。それから、なんと飛行機までももらったということがありました。高校2年か3年の時だったと思いますが、授業中に大きなクレーン船が双発の飛行機を載せて湾内に入ってくるのです。何だろうと思って授業が終わって皆が外に出てみると、クレーン船が堤防の上に飛行機を置くのです。そしてMPが立っていて立ち入り禁止。どうやら飛行機の部品を売って学校の資金にしたようですね。飛行機にはいろいろな部品がありますよね、後で聞いたら「売っちゃったらしいよ。」ということでした。
山田
栄光学園は米海軍元施設に開校したことはもとより、お菓子や食事だけでなく、運営資金のサポートもあったということは、当時の学園は米軍からの有形無形のサポートがあったということですね。
徳永
そうした援助に加えて、さきほどお話したように、学校の設立申請から認可までが短期間に行われたということの背景は、当時の横須賀の米海軍司令官だったデッカーさんという方の思いと、イエズス会の力にあったのだと思います。
米海軍横須賀基地の4代目の司令官として昭和21年4月にベントン・W・デッカー大佐が着任しました。この方は10年くらい横須賀に赴任していたのですが、「横須賀から民主主義を発信したい。」と掲げ、横須賀を中心に戦後の日本占領政策を推進しました。そして、民主主義を植え付けるためにはキリスト教を布教することが必要だと考えた。自分はプロテスタントだけれども、プロテスタントには組織力がない。一方で、カトリックは組織力がありしっかりしているということで、学校の設立をイエズス会にもちかけたそうです。イエズス会で検討した結果、学校を設立しましょうということになりました。デッカー氏の肝いりで進めたからこそ、アメリカ軍の管理下にあった旧日本海軍の施設を使うとか、とても早く学校設立認可がおりたのだと思いますし、その後の米海軍のサポートにもつながるのでしょう。
実は、校名については「ノートルダム中学校」という名前に決まりかけていたそうです。ノートルダムは聖母マリアのことですが。しかし、誰かが「ノーがつくのは嫌だ。」と言い出して、結局、聖書の中に書かれている「より大いなる神の栄光のために」から“栄光”になったそうです。このあたりの話は私も当時は知らなかったのですが、デッカー氏の回顧録を後になって読んで知りました。
山田
ノートルダム中学校ですか!だれが「ノーは嫌だ」と言ったのですかね(笑)。
徳永
それはわかりません、回顧録にも書いてありませんでした(笑)。
山田
いろいろお話を伺ってきましたが、次に徳永さんがOBとして深く関わっていらっしゃる後援会についてお話をお聞かせ下さい。
徳永
実は、私は大学を卒業して会社に入ってからは、すぐに大阪に配属になったり海外勤務も長かったりして、学校の近くにおりませんでしたので、しばらくは栄光との関わりはそれほどありませんでした。しかし、昭和63年に当時の後援会理事の木村君(2期生)から、「鎌倉の近くに住んでいるのだから、栄光のことを手伝ってくれませんか。」という話があり、それからまたお手伝いをすることになった訳です。当時の後援会副理事長の森さんが体調悪くなられたり、理事長も朝海さんから藤野さんに代わったりした時期でした。
最初は理事という話だったのですが、最初の会議に行ってみると副理事長という話になっていて、昭和63年の9月だったか10月だったか最初に出席した理事会で、これまで理事会なんか一度も出たことないのに、さあ副理事長だから司会をして下さいということになり、ドタバタしたことを覚えています(笑)。
山田
後援会は、栄光では基本的に子供が卒業した後でご両親が関わっている組織という色合いが強いと思うのですが、卒業生からすると、後援会については組織の実態がいまひとつ分かりにくいという声も正直あるようです。徳永さんが募金委員長を務められた70周年の事業もあった訳ですが、実際に後援会会長を長年やっておられて、また同窓会とも深く関わっていただいて、同窓会、後援会が今後どういう形になっていくのが望ましいか、徳永さんとしてはどの様にお考えでしょうか。
徳永
いまは明確な区分けはありませんが、卒業生の親を中心とした後援会、卒業生も入っているけれども、後援会は親が中心になっていく。そこに同窓会がバックアップしていく。その役割は無理に分ける必要はないのではないでしょうか。栄光学園のために何か出来ることはないかという目的で、お互いにやっているのですから。生い立ちは違うけれども、常に協力して手を組んでいければ、素晴らしいことだと思います。
山田
学園の創設期や後援会を初めて作った頃は、当然卒業生も少ないですから、同窓会という組織も小さかったと思います。それが卒業生も増えて同窓会組織が大きくなって、昔の後援会と同窓会の関係と、今の関係というのは、若干違ってくる部分が出てくるのではないかと思います。
徳永
あの当時、栄光学園は今よりももっとお金が必要な時代でした。卒業生だけでは足りないし、そこで当時の後援会の方たちが一生懸命資金集めをしていた訳です。油壷に海の家を作ったときに後援会として初めて寄付をしたのだと記憶します。学園だけでは資金が足りないし、同窓会もまだ体力がない。出来れば卒業生の親にも絡んでもらってということだったのでしょう。
昭和40年代前半の頃でしょうか、フォス校長から呼び出しがありました。由比ヶ浜の小さなホテルの会議室で、フォス校長が「栄光はこれから益々教育活動を充実させていかなければいけない。まず、良い先生を採用しなければいけない。良い先生を集めるにはしっかりした退職金の基準を作らなければいけない。そしてその裏付けも必要だ。だから外部からの寄付をお願いしたい。」とお話になりました。加えて、「学校が直接寄付を受け取るのは望ましくない。後援会のような組織を作れないだろうか。そこで資金を集めてそれを改めて学校に渡してもらう、そういう組織が出来上がれば良いと思います。」というお話だったのです。それがスタートとなり、後援会が出来ました。スタート当時は、寄付の受皿だったのですね。
山田
創立70周年事業で新しい校舎が出来ました。一方で以前からある講堂や体育館など、いろいろな施設もあって、今後も学園は一層の資金調達が必要になってくると思います。その意味では、いままで後援会が資金調達も含めていろいろな役割を担ってきたのですが、同窓会も1 万1千人を超える会員がいて、お互いが「両輪」という形で役割を担っていければ良いなと思います。それぞれの長所を活かして補完しあい、どちらの組織も学園の発展のために協力していければと思います。
徳永
今は同窓会の方が後援会よりも力があると思います。人数も違うし、働き盛りの人がたくさん同窓会にはいらっしゃいます。一方、後援会の方は私たちのような70代、80代、高齢の方も多くなっている。同窓会も力がある訳ですから、同窓会と後援会が力をあわせて学園の発展、施設の充実に協力出来れば良いというのはまったく同感です。
山田
世の中も変わってさまざまな仕組みも変わってきていますが、栄光学園の方でもそれぞれの良いところを活用していただいて、学園を伸ばしていく、そういう形が良いのではないかと思います。望月校長もそのようなお話をされていました。
徳永
私は募金委員長を務めさせていただきましたが、今回の70周年事業での同窓会の力は凄かったと思います。本当に力強いなと感じました。人材も豊富だし、同窓会の動きは本当に力強い。
山田
70周年事業のスタートに際しては、同窓会としては菱沼前会長が強いバイタリティーをもって、とにかくやるんだ、多少の失敗はあっても前へ進んでいこうと、力強く引っ張ってくださいました。それが大きかったと思います。それに1万1千人の会員が呼応してくれたからこそ、新校舎建設につながったのだと思います。
徳永
執行部がうまくリードしてくれて、大変大きな力の結集が出来たのですね。執行部もそうだけど、メンバーの方も豊富ですよね。
山田
そうですね。確かに外にお願いしなくても、同窓会会員の中にさまざまな業界で活躍されている方がいるので、そういう方に話を聞いたり協力していただいたりで、かなりのことが出来ます。そういう中でアンテナを広げて「広聴」をしたり、こういう活動をしているという「広報」をしたり、そういうことを充実させていけば、もっと力が発揮出来る、もっと結集出来るのではないかと感じています。
また前回、望月校長との対談の際にもお話したのですが、基本は学園が中心なので、学園の運営とか、先生方のやり方を邪魔することになってはいけないと思っています。
徳永
後援会も、皆さまから拠出していただいた資金は学園に寄付するけれども、余計な口出しをしてはダメだよという運営をしてきました。
山田
世間一般的には「お金も出すが口も出す」となりがちですが、それではいけないと思います。あくまでも学園中心の中で、OBとして、同窓会として何が出来るのかということでしょう。そして後援会とも募金などを含めて携わっている方々とお互いに協力していく。そのようなスタンスは崩してはいけないなと思います。栄光学園の良いところは、この辺の良識がある方が多いということではないでしょうか。同窓会の執行部にいても運営しやすい組織ではないかと感じています。
山田
田浦時代の話を伺いますと、やはり1期をはじめ創成期の偉大な先輩方がいらっしゃったことが、我々にとって、また栄光学園の歴史の中で大事なことだったのだと改めて感じました。先日、徳永さんは、栄光の中学1年生、72期生にお話をされたと伺いました。彼らは、お孫さんよりも下の世代かと思いますが、いかがでしたか?
徳永
今年の9月です。望月校長の倫理の時間を1時間頂戴して、主に田浦時代の話をしました。やはり昔の話は面白いようで、皆さん「へぇ」と言いながら聞いてくれました。規律が厳しかったという話などは、生徒には今はないことだから新鮮に聞こえたみたいです。時間が足りなくなって、質問は休み時間にということだったのですが、結構な生徒が質問に来ました。中学1年生というのは、やはりかわいいですね。1期生というのは彼らにとっては、おじいさんよりも年上になるかもしれないので、相当遠い世代に見えるでしょうね。昔と今では時代が違うのですから、いわゆる規律のようなものも変わるものだと思います。
山田
私のような大船世代も卒業してそれなりの年がたってしまいましたが、お話をお伺いして、田浦時代も含めて栄光学園には、脈々と受け継がれているものがあるのだということを実感しました。
最後に、我々大船世代のOBや今の在校生も含めた若い世代に対して、1期の大先輩としてメッセージを頂戴出来ますでしょうか。
徳永
栄光学園は今とてもよくやってる、非常によく運営していると思います。我々の世代にしてみると、例えば、学園を訪ねても生徒が昔のようなお辞儀をしてくれない、ちょっと物足りないなんて、同期が集まった時に言う者もいますが、それは時代の流れという面もあると思います。いわゆる受験校と言われていても、子供たちは結構伸び伸びとやっているし、私は今の栄光学園はとても良い教育をしていると思います。
私たちの時代には、「Men for Others」という言葉は使われていませんでしたが、フォス校長からは、「君たちは将来の日本を背負って立つのだから、しっかりと皆で力を合わせなければいけないよ。」と言われていました。イエズス会の教育方針は校長先生が何代か代わっても、きちんと引き継がれているのだと思います。私は、今の教育方針でこれからも学園を続けていただけければ良いと思っています。
山田
本日は、とても楽しいひと時、貴重なお話をいただき、ありがとうございました。