バレーボールが授業に取り入れられるようになったのは、昭和24~5年頃だろうか。
町田、河内さんら一期生が中心となってクラブ活動をしていたが、正式に「排球部」として発足したのは昭和27年の春ごろ、二期生が中心だった。
桂田、鈴木(博昭)、中村、長谷川に私の5人が顔を揃えた。
当時はコンクリートのコート、怪我の心配をし、夏などは照り返しもあって大変な思いをしたが、全員ボールを打ち、拾いながら元気一杯に練習に励んだ。桂田の兄上が横須賀市役所勤務だった関係で、兄上をはじめ市役所排球部の方々がコーチ役を務めてくれた。特訓は凄まじかった。
9月の高校大会では幸先よく一勝を挙げた後、市民大会に臨んだ。ご縁のあった市役所の配慮があったのか、籤運よく初戦に勝っただけで決勝戦に進んだ。
相手は横須賀高校。藤沢高校が全国優勝、横須賀高校は、藤沢に負けただけの全国的強豪、勝敗は全く問題にならない。しかし、判官贔屓の観衆のほとんどが初出場の我が校の応援、サイドラインに沿ってズラリと並び、まるで人垣のなかからサーブをするような感じであった。僅かな得点をあげると室北部長先生が、躍り上がって猛烈に拍手をしていた姿が印象的であった。昭和27年11月3日のことである。
全国2位の横須賀高に次ぐ成績だから全国3位だと屁理屈をいい、フォス校長に褒められた。後日知ったことであるが、スポーツで名を挙げると、県か市から報奨金が出たらしい。
初期の排球部には予算がなく古いボールが僅かにあるだけである。第2代部長の金子先生と相談し、体育祭そっちのけでアイスクリーム、ソーダ水を売りまくって資金稼ぎをした。
練習の後、雑草をとり、小石を拾ったりして土のコートで漸くプレーすることが出来た時の感激は忘れられない。
熱い思いが、今も胸のなかを通り過ぎている。
藤村 薫 (2期)