支部等活動演劇部43期同窓会

「え?栄光に演劇部ってあったっけ?」
これは、私の勤め先の栄光OB会で、某先輩から発せられた一言である。そして、これに同調する他の先輩、後輩。
たしかに、この集まりのメンバーは私の前後ともに10期以上空いている。おそらく、この空白の期間に栄光演劇部は創部され、最盛期を迎え、そして残念ながら部員不足により廃部となってしまったということなのだろう。
私は必死になって「部長の山本洋三先生の厳しい指導を受けながら、創立記念祭では講堂を埋め尽くさんばかりの観客を前に芝居をしていた」「最盛期には20名以上もの部員を誇っていた」「演劇の研究を目的に、S泉女学院やK倉女学院の芝居にも足を運んでいた」など、栄光演劇部が確かに存在した証を説明(一部誇張を含む。)するも、「演劇って男だけでできるのか?」「単に女子校の文化祭に行きたかっただけでしょう?」「君の通っていた栄光は違う栄光なんじゃないの(笑)?」とまで怪しまれる始末。
かくして私は、「このままでは、推定50名、いや100名を数える栄光演劇部関係者に対しても、私と同じ疑念の目が向けられてしまう、実害はほぼ想定されないが、元キャプテンとして何とか演劇部が存在した証を残さねば」という緩やかな義務感を抱えつつの日々を過ごすこととなった。
そんな折、昨年秋のある日、私の緩やかな義務感(正確には、義務感を緩やかに感じていただけで、何もしてこなかったこと)を見透かすかのように、演劇部の某同期から「洋三先生を囲んで同期会をそろそろやろうぜ」という旨の提案(催促)があり、私は焦った。マズい、私がボヤボヤしている間にも、推定100名、いや200名を数える栄光演劇部関係者に対し、私と同じ疑念の目が向けられ続けているかもしれない、このままでは栄光演劇部関係者に顔向けできない、と。

幸い、洋三先生のご様子は、ご本人の手によりウエブ上でフルオープンになっており、体調の方もすっかりご快復されたようだ。ちゃんとした演劇部同期の名簿もメンテナンスしてこなかったが、この時代、SNSをたどれば何とかなるだろう、不惑を迎える前に、声を掛けられるだけ掛けてみよう。ということで、皆の多大な協力を得て、栄光演劇部43期生9名が山本洋三先生を囲む会の実現に至った次第である。先生曰く、栄光演劇部としては、初めての同窓会開催とのことだ。
平成28年1月8日、実に20年ぶりの再会となるメンバーもいる中ではあったが、演劇部の思い出の濃厚さゆえだろうか、あるいは、意外と皆、見た目が変わっていなかったからだろうか、久し振りという感じが全然しないなあ、というのが互いに抱いた印象だったと思う。
当時、我々の上演した「雪をわたって(北村想)」「エリゼのために(同)」「戦場のピクニック(アラバール)」「颱風よこんにちは(田中雅司・演劇部43期)」のそれぞれについて、次々に語られる思い出話の鮮明さもまた、流れた年月の長さを感じさせなかった。皆で当時の写真を眺めていると、20年経った今も、ディテールも含めて(むしろ、ディテールほど)当時の空気感がよみがえってくるのだが、これは、月並みではあるが、卒業したのがついこの間のようでありながら、事実としては卒業してからの人生の方が長いという、とても不思議な感覚を伴うものだった。
部長の洋三先生もお変わりなく、もともとカメラ、水彩画、エッセイ執筆、芸術鑑賞ほか多くの趣味をお持ちであったところ、近頃は書道にも精力的に取り組まれているとのことで、「時間がいくらあっても足りない」と、ちょっと嬉しそうにではあったがお嘆きであった。
また、先生はこれまでの演劇部上演記録を整理されているらしく、我々の上演した演目を丁寧に手帳に書き込まれていた(おそらく先生も、栄光演劇部の実在を疑われたことがあるに違いない)。我々の入部前、筒井康隆のとある短編戯曲を上演するに際しては、エスカレートする狂気性の演出があまりにリアルすぎたらしく、一部方面で物議を醸したこともあったのだそうだ。
それにしても、20年ぶりの集まりともなると、平日夜の何時間かでは全く話し足りないものである。終電の時間を恨みつつ、結びに、長年にわたり栄光の教壇に立ち続けられた洋三先生にささやかな花束をお贈りし(こういう時に男子校だと絵にならないのが残念である。)、次回、本年7月15日の再会を約して、つつがなくお開きとなった。

河野 修人 (43期)

演劇部43期同窓会(2016年1月8日)

部長 山本洋三先生