横須賀から大船へ移転した時、私たち14期は高校2年生であった。皆が総動員されて、前川充留君が中心となって引っ越しに関わった。経済記者の父親が、「よくまあ、あれだけの広大な土地を手にした」と、G.フォス校長の手腕に感心していたが、東京オリンピックの年でもあり、建築費も相当高騰して、財務的にかなりの背伸びの状況であった筈である。今時、引っ越しは業者に委託するであろうが、当時は、自前が当然の時代でもあった。横須賀で教室から机をトラックに乗せ、大船でトラックから下ろす。今でも、夏の日照りに麦わら帽子と手ぬぐいでほっかむりして、皆が黙々と作業していたシーンが思い出される。
1963年に清泉が移転し、翌年栄光が移転した。突然、山が削られて校舎が建った。工事用の道路は裏からで、大船駅からは、泥の山道を登ったり下ったり、駅から学校まで結構大変であった。清泉の学生は別の通学路であった筈だが、同じ山道を歩いた学生もいて、ぬかるみを革靴が滑り、見るからに気の毒であった。移転後も、工事が完了していたわけではない。グラウンドも、スポーツをする状況になく、サッカー部は、13期が高2の時全国大会に行ったが、練習場に不自由な14期は、県下トップを続けることが出来なかった。
私達の高3の4月は、大船校舎の学年新学期の最初である。なんと、高3A組の副級長に指名されてしまった。(当時、各クラスの正副級長は、学校の指名で決まった。)それまでは、高3A組の正副級長は、学年成績一、二番の定石である。そこに、成績真中辺の私が指名されたのである。気がついた時には、級長会議の副議長で、緑化委員会を立ち上げる事になっていた。下級生を集めて、放課後、竹中工務店がやり残した建築の跡片付けをしたり、生徒の小遣いを集めて苗を購入して、植えてまわったりしたものである。今し思えば、立ち入り禁止も無視して新校舎を探索した度胸や、16期の弟の旧友とも仲が良かった等で、目を付けられたのであろう。しかし、この時、人を束ねる良い訓練をさせてもらえた。作業の後の三三七拍子が慣例となったが、音頭を取るのは痛快であった。以来、何かとこの閉めの慣習を継続している。
高3は、暮れになると、学校を早くに退散する。私は、下級生と作業しながら、受験勉強に集中する同級生達を見ていて、心穏やかでは無かった。数学高難度の大学を志望していたが、故見山先生(数学)に無理だと言われ、安全牌に進路を変更した。自分より成績上位で受験に専念した連中に多く浪人が出たのは皮肉であったが、この時の化学生物系への転身が、後に在米13年、上司のノーベル賞に貢献でき、帰国後、生物学の故浅野CHONS先生に褒められた。
人生って、結構、予定外に変換する。後輩諸君、人生は「棚からぼた餅(運)」である。だが、運はいつ来るかわからない。落ちるところにいないと拾えず、臨機応変に拾うのも能力だ。それには、故フォス校長が毎日言っていた「やるべき時に、やるべき事を、しっかりやる」と言う鍛錬が、「何をやるべきか」を問うことを含めて、日々の生活の根本であり、これが栄光精神だ。
振り返って、高3の時のチャレンジは、得難い成長の機会であり、幸運であった。
高垣 洋太郎 (14期)