寄稿・投稿青ヶ島紀行

2016年新学年

青ヶ島の名を知ったのは中学生の時である。我家に電話が付いたのでどこか遠くに掛けてみようと思い、地図を調べたら八丈島の南に青ヶ島があった。交換手に訊いたら、その島には電話機がないので繋げないと言われた。

伊豆七島と呼ぶ大島、利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島が北から南に並び、その南に青ヶ島がある。更にかなり南に鳥島や小笠原諸島がある。
新島と式根島は繋がった一つの島であったが、江戸時代の大地震で二つに離れてしまった。八丈の傍らにある八丈小島には昭和44年まで住民がいた。そのため大島から青ヶ島まで全部で10島であり、伊豆七島は正しい呼称ではない。現在は伊豆諸島が正式呼称であり、七島会館と七島青年大会は島嶼会館、島嶼青年大会に変更された。行政上は東京都である。

大島から神津島は、東京や伊豆下田から船が毎日多く出ているが、三宅、御蔵、八丈には東京から大型船が毎日1回出航するだけである。青ヶ島には八丈から村営フェリーが連絡する。
青ヶ島は東京より360km、八丈より80kmあり、連絡船は週に5日の予定であるが、少し風が吹くと突堤一つだけの島には着けず、船は八丈から出航しない。1月は4日、2月は7日しかフェリーは青ヶ島に行かなかった。
私は3月に訪れたが、少し波が高く、条件付きで船は八丈を出発した。波止場の状況によってはそのまま戻るとのことである。何日か欠航が続いていたので、小型の船には生活物資が多く積まれていた。客は島へ帰る人と、東京のレストランで働らくインド人と私の3人である。
2時間半で青ヶ島に着いた。波が高く桟橋がかなり揺れるので、降りるのに苦労した。宿が少ないので予約が必要であり、帰りも天候次第なので、余裕をもって来島するようにと注意されていた。海が荒れると1週間以上も船が着かないことがあるらしい。
波止場に警察官がいた。私は1週間位泊まると予定を告げた。彼はインド人と言葉が通ぜずに困っていたので、通訳してあげた。インド人は宿の予約もなく、明日帰る予定だという。土、日は船が休みであり、平日でも波の状態で船は来ないことが多い。生憎、明日は天候が悪く欠航の予定だし、その次は土、日で、少なくとも4日間は帰れないだろうと告げた。インド人は休みを2日しかとっていないとの事で、暫らく考えていたが、残念ながら折り返しの船で戻っていった。

島の周りは200m程の崖が続いている。切り立った崖はそのまま海となり、浜といったものは見当たらない。「とり着く島がない」という言い回しがぴったりの島である。
島はほぼ菱形に近く、南北の長径が4km、東西3kmであり、広さは6km2である。船は南側の三宝港に着いた。港とはいっても、50m程の波止場が突き出ているだけである。僅かに大三宝、小三宝と呼ぶ立岩が崖から海に続いており、波除けの形になっている。
船着場の前面は見上げるような崖が大壁のように立ちはだかっている。崖の左手には上部から刮(コソ)げ落ちた崩落跡があり、道路がそこで寸断されていた。
崖下はコンクリートで固めたプラットフォームと波除けの壁が、まるで要塞のように見える。プラットフォームの上の狭い棚に漁船が5艘載っている。大岩からケーブルが棚まで伸びており、漁をするときは船を吊って海上に降ろすらしい。高い波があるので、相当上部に置かないと、船が壊れてしまう。の周りは海でも年に数日しか漁はできず、余所からくる大型漁船に獲物を攫われてしまう。
島の大半は大噴火のため、深いカルデラになっている。直径は2kmの円形で、垂直の壁が取り巻いている。壁の高さは北側200m、南側はやや低く100m程である。
元は中に池があったが、天明期の大噴火で消滅し、カルデラの中央に高さ50mの新たな墳丘と火口を生じた。今でも僅かに水蒸気を噴出しており、火口は径200mの凹部になっている。
噴火以前はカルデラ内部に村があったが、噴火が続いたので今は畠だけであり、村はカルデラの外の北側の傾斜地にある。
波止場から村へ行くために、外輪山を突き抜けカルデラに至る、505mの青宝トンネルがある。トンネルは掘り抜きの岩のままで、かなりの傾斜になっている。カルデラを廻った反対側に平成流し坂と呼ぶ急坂があり、崖を越えて村に続く道となる。
青ヶ島は日本で一番小さな村で人口は167人、111世帯である。小学生12人、中学生5人で、この5年間で人口は50人減少している。
島と大半を占めるカルデラは少し南に偏っており、北側の縁が高くなっている。最高地の大凸部(オオトンブ)423mに立つと、島全体が見渡せる。深く窪んだ火口原の真中に、天明期の大噴火で盛り上がった内輪山(火口)がある。
噴火から230年経ており、全体が樹木に覆われている。台形の火口丘は縦に幾筋も木が伐られ、縞状の処に椿が植えられている。椿は利島から移したもので、虎刈りのように木を残したのは、椿の幼木を風から護るためである。大島の隣りの利島は全山に椿が植えられており、椿油の生産では日本一である。
火口丘の西側には草木の無い「ひんぎゃ」(火の際の意)とよぶ岩場がある。噴気孔が点在し、蒸気を用いた村営サウナと、地熱により海水からヒンギャの塩をつくる施設がある。
村は外輪山の縁から北に続く斜面にある。西郷(ニシゴウ)、休戸郷(ヤスンド)、岡部の3地区に分かれており、道はカルデラから村を抜けて、外輪山の海側の崖を巡り、船着場まで下っていく。道は海岸近くで崖崩れのため、通行止めになっているが、歩いてみると、崖からの落石がかなり路上にあり、危なそうである。もっとも殆どの人は車を使うので、落石に当たる確率は小さいのかも知れない。
崖はかなり以前に崩れたので、反対側に続く道を作ったが、これも海に至る直前の処で崩れたため、工事は放棄されていた。
落石を防ぐため、擁壁づくりが盛んに行われている。遙か上からロープで体を支えて、コンクリート打ちや吹きつけ作業をする人が見えた。最終的には道の上側の崖を総てコンクリートで固めてしまうらしいが、小さな島にしては大掛かりな工事である。伊豆諸島が東京都の管轄なので、予算が潤沢に出るらしい。
村の中央に、少ない生徒数にしては立派な小中学校が建っている。斜面の下方から眺めると城郭のように見える。隣りに村役場と図書館があり、保育園、集会所、診療所を兼ねた建物が並んでいる。公共施設としてはその他に発電所と水道施設がある。
小学校の南側にある尾山展望台(400m)のすぐ下の斜面を長さ200m、幅100mコンクリートで固め、流れる雨水を大きな水槽に集めている。これを濾過して水源としている。
発電は船で運ばれてくる重油を用いている。村に電気がついたのは、昭和34年に学校に灯ったのが初めである。発電機によるものであったが、昭和41年に発電所ができ、1日6時間の送電で、TVが見えるようになった。
映画は昭和25年発電機による無声映画「ターザン」が初めてであり、30年にはトーキーの「山びこ学校」を学校で上映した。生徒はこれを5、6回見た後に、やっと映画というものを理解したという。
同じ年に社会党の山口シズヱさんより自転車が一台贈られた。自転車第1号である。電話は昭和31年に無線電話が役場に設置された。青ヶ島はこの年の7月に行われた参院選挙まで、日本で唯一選挙権を行使できない村であった。有効な交通手段が無いためである。
店は雑貨店の十一屋(トイチヤ)があり、食料品と生活用品を扱っている。店主は東京から暖簾分けして島に来た人である。店名は一割の利子を得た質店に由来していると思われる。
その他には土木工事で働く人のために、酒を提供する小屋のようなものが2軒あった。島には働き口が少ないため、昭和30年より、失対事業として道路の補修を主とした土木工事が行われている。そのため従来行われていた畠の手伝い、船づくりや家の新築、屋根の葺き替え、牛舎や炭窯づくりなどにみられた村人同士の無償の援け合い「みまい」の習慣は無くなってしまった。
店は一軒だけで不便であるが、住民の多くはかなりの量の必需品をフェリーに頼んで購入している。以前は年に数回しか船が訪れなかった。今も海の荒れる時期は数週間も船が来ないので、備蓄しておくのが習慣になっている。

人口は天明3年(1783)に340人であったが、大噴火で130人亡くなり、他は八丈島に疎開した。文化14年(1817)名主次郎太夫により青ヶ島への帰還が計画され20人が先遣隊として渡り、その後全員が島へ戻って天保6年(1835)には241人に増えた。
以後明治5年653人、9年697人となり、大正4年(1915)には750人と増加したが、昭和25年400人、36年350人、53年198人と減り、現在は167人である。減少理由は交通が不便なこと、産業や働き口の無いことおよび高校が無いことである。
小学生は12人で1、4年生はいない。中学生は5人で、1年2人、3年3人で2年生はいない。子の誕生は珍らしい。駐在さんの奥さんが妊娠しているが、転勤の予定があるので期待できそうもない。駐在や教員は2〜3年で替っている。
村の生活は長い間外部と隔絶した状態であったが、年に1、2回の連絡船だったものが昭和初期から数回に増えたこと、昭和19年より山梨や長野に2年近く疎開していた100名近い島民が、内地の生活を体験して戻ってきたこと、また戦時中、島の守備のため陸海軍1個小隊が島に駐屯したことなどが、島民の意識と生活様式に影響を与え、伝統的な島の暮しに変化が見られるようになった。

島には特有の方言がみられた。今はTVなどの影響で使われない語も多くなっているが、そのいくつかを列挙してみる。
ドンゴ(馬鹿)、オンガシ(青ヶ島)、オモウワヨ(さようなら)、オウ(ハイ)、カンモ(薩摩芋)、ゴラゴラ(早く)、ヘンドウ(おかしな)、ヘベラ(服)、ヨ(魚)、ヨンバリ(小便)、カム(食べる)、キンチメ(お化け)、ヘダカ(背中)、ソウグ(叱る)、シャガ(白毛)、ヨウケ(夕食)、アサケ(朝食)、ヒョウラカム(昼食を食べる)、キネイ(昨日)、ウッセイ(一昨日)、シニイキデ(一所懸命)、バメ(雌)、ジョク(雄)、シャンメ(虱)、ヤメロワ(痛い)、ヤロゴン(やろう)、ヘイメ(蝿)、チューチューメ(雀)、ケーロメ(蛙)、ノオンメ(蚤)、ヒャシメ(蟻)、ケイビョウメ(蜥蜴)、アダンシトウ(どうしたの)、カキジャル(ゴキブリ)、クッコーシ(蝉)、ジョンジョンペイテ(びしょびしょになって)、デイチケ(美しい)、ホッチキ(本当に)、ネッコケ(小さい)、ヨッキャ(良い)、ワルキャ(悪い)、シッカリ(沢山)、テッツモ(少しも)、デイチイ(奇麗な)、ヨソオースル(手伝う)、ホオ−ドノ(母)、ズニン(流人)、ボオーク(大きく)、マンモ(今も)、ホントーダラ(本当だ)、イキンナ(行かない)、カミンナカ(食べない)
ヨウケ、アサケのケは食物を示す古語のケであり、シニイキデは死に生きでで、死んだつもりで励むこと、ドンゴは鈍根(ドンゴン)で能力の劣ることである。お化けを示すキンチメの語は、他人に対する尊称の‘貴むち’に蔑称のメをつけたものである。貴むちの語も初めは尊称であったが、次第に同輩を指す語となった。
その他ドーソク(ローソク)、ヂコウ(利巧)、デーネン(来年)のようにラ行音がダ行音になったり、ジョーリ(草履)、ジャル(笊)、ミジョ(溝)のようにザ行音が拗音化したり、シャンメ(虱)、ショバナ(潮花:海水)、ニャットリ(鶏)、シャガ(白髪)のように拗音化現象が認められる。
方言の中にはタモウレ(給ハレ:下さい)、オジャル(オイデャル:来る)、ゴキ(御器:食物を盛る椀)、ボックリ(木履:足駄)、マナコ(眼)、ヨ(イヲ:魚)、ハラメ(妊婦)、トンメテ(ツトメテ:朝)、ヒョウラ(ヒャゥラウ:兵糧、昼食)、カナシ(愛シ:可愛い)、アサケ、ユフケのケ(笥:食物)、ケダイ(懈怠:怠惰)、ホオードノ(ハワ殿:母)、ツブリョ(ツブリ、ツムリ:頭)、ヨンバリ(ユバリ、イバリ:尿、小便)のように古語に由来する語が残っている。

昔は水道施設が無く天水を用いた。屋根の水を樋で大きな水槽に溜めていた。ゴミやボーフラ、トカゲが入り、かなり不衛生な状態だった。雨量は多いのだが、火山性土壌のため水はけが良く、生活用水には苦労した。
水が少ないため、昭和30年代には風呂に入るのは週に1度が村の8%、ひと月に1度が半数、中には2カ月以上も入らない者もいた。昭和50年代まで雨水を生活用水にしており、今でも多くの家に6畳程のコンクリート製の水槽が残っている。
昭和34年の調査では回虫保有者は小学生58%、中学生27%であり、駆虫薬の使用により一度に40匹以上の回虫が回収された。
村には月経を迎えた少女が生活する他火小屋(タビコヤ)があり、年長の子より裁縫、礼儀、調理、機織り、育児など家事万端を習う慣習があった。
住民の姓は広江、佐々木、奥山、浅沼、菊池の5姓で大半を占めている。人々は個人名で呼び合うので、住民の繋がりはよく掴めない。互いに正夫、繁雄、君江などと呼んでいる。
車に乗せてもらった人に、私の宿の主人の名を訊いたら「ウーン、あれは広江だったかな、奥山だったかな」と暫く考えていた。それ程に苗字を使うことはないらしい。

島の産業として炭焼きがあった。豊富にある木を使い、窯を造って木炭を焼く。大正4、5年には1万3千俵を生産したが、高値のつく冬は海が荒れて島から出せず、値の下る春から夏にしか搬出できなかった。牛の飼育も現金を得る手段であったが、これも船に乗せるのに苦労した。
羊歯科のオオタニワタリも良い収入源となったが、乱獲のため数が減ったので、かなり前から持ち出しが制限されている。
現在窪地の池之沢でサツマ芋が栽培されており、青酎と呼ぶ焼酎が作られている。何軒かの家が青酎を作っているが、それぞれに度数と味が異っている。
サツマ芋は享保8年(1723)八丈に初めてもたらされたが栽培法が解らず広がらなかった。文化8年(1811)菊池秀右衛門と太田繁右衛門がアカサツマ芋を、文政5年(1822)秀右衛門の伜の小源太がホンス種の芋を植えて栽培が広まった。
青ヶ島には弘化元年(1844)に八丈より伝わった。八丈では文化4年(1807)以来飢饉が続き、7、8年の餓死者は400人余りとなった。青ヶ島も同様の状態であったが、サツマ芋の普及により飢饉による飢えは少なくなった。
今日生活環境は一変しているが、戦後暫らくはかなり劣悪であった。昭和30年より蝿取競争を実施したが、生徒が10日間で27万匹の蝿を集めた。翌年は発生源に薬を撒いたために14万匹に減らすことができた。

村の中央にある学校の下を降りていくと篠竹の原が広がっている。黒牛の牧場になっており、その先は海に落ち込む崖となる。
島の北端に神子浦がある。上から覗くと100m程の垂直の崖で、崩れた岩に白波が立っていた。
藪の中に急な小路がある。何だろうと降りてみると崖の沿って右左に折れながら踏み跡路が下に続いている。途中の岩陰に倒れた鳥居と小さな祠があった。幣が数本奉られている。路は未だ続くらしいが、崩れそうで危ないので、祠から引き返した。
以前はこの神子浦が唯一の海岸に降りる場所であり、船はここから出入りしていた。船はその都度岩の上に引き上げて、波に攫われるのを防がなければならない。浜とは呼べない大岩の転がった場所なので、船の乗り降りにはかなり苦労したことだろう。

島は火山島なので水はけがよく、水に苦労している。カルデラの中は大半が樹木が茂る森となり、処々に畠がつくられ、観葉植物やサツマ芋が栽培されている。火山礫の土壌と風が強いので、余り作物にはむいていない。
木々の間を歩いていると、両側に長さ1mを越す幅の広い葉を付けたオオタニワタリが群生している。薄緑の葉を広げ、まるで大鳥が飛んで行くように見えた。
椿は未だ木が小さくて実をつけていない。林の一部には200年を越す杉の大木が繁る処があった。
噴出する地熱蒸気を利用して調理する蒸気釜がある。サツマイモや肉、野菜、卵を入れておくと40〜50分で蒸し上る。窯の近くにサウナがある。蒸気は60度程で少し低いが、長く入っていると体の芯から温まってくる。村から少し遠いのが難点ではあるが、何回か入りに行き、蒸し料理と冷えたビールを愉しんだ。

大川 豊 (14期)