寄稿・投稿波照間島游行

人の住む島としては最も南で、北回帰線に近い北緯24度にある。石垣島より船で一時間で波照間に着く。横に長い楕円形の平らな島である。周囲15kmで267戸520人が住んでいる。
集落は少し小高くなった島の中央にあり、砂糖黍が主な生産物で、それから作られる泡盛の「泡波」は量が少ないため、仲々手に入り難く貴重品となっている。
十四世紀に八重山一帯を統治した遠弥計赤蜂(オヤケアカハチ)の出生した島で、福木の林の中に碑が建っている。近くに戦時中、ルソン島より丸木船で普天間に漂着した日本兵の碑があった。
昭和19年11月3日マニラ派遣隊24名はフィリッピンに到着した。その後移動を繰り返して、4月にルソン島の東海岸に至った。ここで9名の隊員が丸木船に帆を張り、島を脱出することに決めた。椰子の実20個と僅かな食物、それに竹筒に入れた水と共に5月15日にルソン島を出発した。幸い6月4日に波照間に漂着したが、途中5名は亡くなり、4名だけが生還した。碑は彼らの出身地である山梨、福岡、宮崎の関係者により建立された。
明和8年(1771年)石垣島で大地震が生じ、大津浪により島の人口の半分に当たる8千4百人が犠牲となった。震源地に近い白保地区では、海岸から数キロ離れた畠の中に珊瑚礁の大岩が打上げられている。
琉球政府は白保地区の再興のため、波照間から418人の住民を移住させた。しかしその後飢饉やマラリアの蔓延が続き、住民は減少してゆき、明治30年には72人となり、昭和30年に村は消滅した。
やがて戦争が始まり、波照間への米軍上陸を怖れた八重山守備軍は、波照間の全島民1590人を西表島各地に移住させた。その時米軍に利用されるのを防ぐ目的で、牛や鶏の家畜は総て処分され、村民の持出しを禁止した。
西表の南風見田(ハエミダ)地区は1734年波照間から4百人が開拓に入った処であり、マラリアの大流行で大正9年(1920年)廃村になっている。
波照間港から少し登った処に学童慰霊碑がある。昭和20年4月8日島の住民323名が廃村になっていた南風見田の地に強制移住させられた。
マラリアの猖獗(ショウケツ)地域であり、森の中は食料もなく学童66名を含む84名が亡くなった。
波照間小学校創立90周年事業として、1984年7月16日に慰霊碑が建立された。西表島の波照間を望む南風見田海岸には、この悲劇を後世に伝えるため、命を落とした人の名を刻んだ忘勿石(ワスレナノイシ)の碑が建っている。
波照間の住民が強制疎開したのは、西表島の南風見田、古見(コミ)、由布(ユフ)島であり、いずれもマラリア汚染地区であった。疎開した全島民1590人中1587人がマラリアに罹り、その3分の1に相当する488人が亡くなっている。
波照間はマラリアに汚染されておらず、強制疎開がなければ、住民は命を落とすことはなかった。
八重山地方の石垣や他の島でも強制疎開により、マラリアで亡くなった人が多くいる。これを「戦争マラリア」による犠牲者と名づけており、八重山全体では昭和20年3月~12月の間で、全人口3万1701人中マラリア罹患者1万6884人で3647人が死亡している。
島の北側の海近くに下田原貝塚がある。3700年前のもので、波照間には古くから人が住んでいたことが解かる。
貝塚の東方にはシムスケーと呼ぶ古井戸がある。石灰岩の窪地から水が湧いている処でシムス村という集落の跡であるが、今は人は住んでいない。他の井戸が涸れてもここは水が湧いてる。
言い伝えによると、村のペプタチパー(パーは婆の意)の赤牛が足で土を掻き分けて水を飲んでいたので、村人が掘ってみると水が湧き出たそうである。
島には旧藩時代、海上交通の監視をした火番盛と呼ぶ石造りの見張台がある。高さは5m位で、船の往来を報せるために烽火を掲げた。集落の中にある遠見台(火番盛)は原形を留めているが、西のホタムリ遠見台と灯台近くにあるカッチンヌプヤムリ遠見台は石積みが崩れており、登ることはできなかった。
島は砂糖黍畠が広がっており、水不足に備えて大規模な貯水池が作られている。珊瑚礁からなる島はどこも水捌けが良過ぎて、水不足に悩まされている。
宮古島、大東島、黒島、鳩間島、竹富島も雨量が多い割には水が地下に溜らず、生活用水に苦労している。そのため宮古島や伊是名島では、地下に長い壁を設けて、浸透水の流出を防ぐ地下ダムが造られている。
貯水池は農業用に使われており、どれもかなり大型で、看板を見ると20億から28億円も費やされている。
南西にある貯水池の脇には、火番盛を模したかなり高い台が造られており、底名溜池展望台と名づけられている。昔の遠見台の2倍程の高さがあり、島の南側に続く石灰岩の崖を眺めることができた。
南東の高那﨑に向かう途中に日本最南端の碑がある。小さな碑で余り目立たないが、訪れる人は多い。近くに星空観測タワーがある。周りには人家がなく、外灯もついていないので、星を見るのには最適の場所である。
港の横にニシ浜ビーチがあり、3月19日が海開きだった。早速浜に降りて泳いでみたが、少し冷たい感じがして、泳ぐ人も少なかった。
集落内の路の両側はサンゴの石垣とフクギの並木が続いている。福木はオトギリソウ科で、フィリッピン原産の高木である。長楕円形で厚く艶のある葉を付けている。真直ぐ伸び、太くなるので、これを密植すると防風林に適している。
高那崎から南端の碑までは、石灰岩の岩礁地帯で崖が続いている。覗いてみると、濃いブルーの海が広がり、南国の海といった感じがした。
海沿いの道を歩いて行くと、アダンの木が繁っている。砂糖黍の畠がどこまでも続き、傾斜地は石灰岩を並べた石垣となっている。黍の他の作物は見当たらないが、海外から安価な砂糖が輸入された場合、黍畠はどうなるのだろうかと心配になってきた。

池添 博彦 (8期)