渡名喜(となき)島は那覇の西方50kmにある。フェリーは慶良間(けらま)諸島の渡嘉敷(とかしき)島や座間味(ざまみ)島の北側を抜けて渡名喜に向かう。このあたりの海は3月から4月にかけて、座頭鯨が繁殖のために回遊してくる。ホエールウォッチングの船もかなり出ているが、フェリーに乗っていても豪快にジャンプする鯨が見られた。
渡名喜には今まで3回訪れようとしたが、いつも宿が空いておらず、行くことができなかった。宿が少ないため、年度末は仕事の人が多くて混むとのことだった。
今回は、3月中は別の島を巡って、4月の初めを予約したら宿をとることができた。フェリーは渡名喜経由で久米島行きである。那覇港から1時間半でくの字の形をした島に着く。
周囲13キロ足らずの小島で、南と北は小山となり、集落は真中の平地にある。西側の港から東の浜まで家が続いており、215戸、371名の住民がいるが、年々減少している。台風が多いので、家は地面を掘り下げて建っており、周りを福木で囲って風よけにしている。港の近くには道路より1.6mも低い処に建つ家がある。
集落の路は一軒毎に表と裏に東西に走る道があり、港からアガリ浜まで伸びている。数えてみると東西に12本の細い路があり、数戸の家を区切って南北の小路が7本あった。一つの区画に数軒並んでいる。各家は珊瑚を積み重ねた石垣があり、内側に背の高い福木が並んでいる。
集落の中はどの路もよく似ており、初めはどこを歩いているのか見当がつかず、宿の位置を探すのに苦労した。
島から本島に出ていく人が増え、無人の家や盆と正月だけ島に戻る家も多い。新しく建て直された家は、道路と同じ高さに埋め立ててコンクリート製になっている。
村の周りは畠が広がっている。島人参と糯黍(もちきび)、島バナナ、リュウキュウガネブ(野葡萄)が主なもので、他に西瓜や葱が植わっている。
宿で自転車を借りて島を巡ってみた。島の北は146mの小山で、西森展望台がある。慶良間諸島が南東に見え、反対側の海は珊瑚礁が広がり、その沖に無人の入砂島がある。小島の周りは最良の漁場であるが、現在は米軍の射爆場となっており、ヘリコプターと飛行機が射撃の訓練をしていた。かなり大型の爆弾を投下しているようで、腹に響く音と、急降下した飛行機から機銃の連発音が聴こえてきた。爆音を共に砂煙が高く上がっている。射撃演習は休日以外毎日続けられており、静かな島だと思っていたので、残念な気がした。
展望台の途中に里御嶽(ウドゥン)がある。御嶽は聖なる場所であり、村の中にも3つの拝所(殿(トゥン))がある。一年毎に7名に神女(カンジュナ)がノロの家に集まり、神道を通ってトゥンニンジュと呼ぶ人々と共に祭祀を行なう。祭礼は4日間続けられ、シマノーシ(島直し)ミチュマールガナシー又はシヌグ祭と呼ばれ、豊年、大漁、航海安全を祈るために行われる。殿は福木の林の中にあり、一坪程の拝所が置かれている。
村の端に小中学校があり、隣の公園に平和之党が建っていた。戦没者290名の名が刻まれている。比嘉(ヒカ)、上原(ウエバル)、渡口(トグチ)、桃原(トウバル)、宮平、大城、又吉(マタヨシ)、南風原(ハエバル)、平安山(ヘンザン)、仲村渠(ナカンダカリ)など沖縄特有の名が認められた。学校の生徒数は小学校17名、中学校5名、幼稚園6名である。
村の西に広がるアガリ浜は、白砂が2キロ続いており、南のアンジェーラ浜には亀が産卵に訪れる。珊瑚礁がかなり沖まで広がっており、引き潮になると貝やタコをとる人が出ていた。水の中を歩いていくと、白黒の斑になった海蛇がクネクネと泳いでいた。泳ごうと思ったが、満潮でも余り深くならず、泳ぐというより水浴びのような感じであった。アガリ浜の端に海に突き出た細長い崖があり、海蝕洞が2つ並んで開いていて、眼鏡岩と呼ばれている。
村は同姓が多いので、各々の家を区別するために、屋号が別に付けられている。屋号は門の外に記されており、イフーヤーは魚が好きな人、エラブチャーはエラブという名の魚を好む人、カーヌメーヌウィーチは井戸の前の家、コウチグァーは小さい幸地(幸地家の分家)ウーヤヌコウチは大家の幸地で幸地家の本家、アガリイーバルは東の上原、イリヌアバシーヤーは西の上原、アガリヌヘーバルヤーは東に住む比嘉、イリジョーは西の上門である。
意味の解り難い屋号ではクチンダナカンダカリドゥンチ、ウィーバルヘーバラドゥンチ、ウィーバルヘーバラヤーグヮー、ヘーヌトゥクチャーグヮー、イリヌウーブンヤー、ヘーバラーヌムックジャー、アガリヌヘーバルヤーがあった。それでもナカンダドゥンチは仲村渠殿地、ヘーバルは南風原、ウィーバルは上原、ヘーバルは比嘉、グヮーは小で分家、ヘーヌは南側、トゥクチャーは渡口、イリは西側、アガリは東側と部分的には理解できた。
屋号は本家や分家の別、家の方角、住居者の好みと姓を組み合わせてつけられている。村民同士は屋号で呼び合っているが、かなり訛りがあるので、私には判別し難かった。
港に島を詠んだ碑が建っていた。
「愛(かな)ち生(んま)り島渡名喜、若さたる時分やヌーチン鬼(う)マーン、生(う)まり島ゆたさ今どぅ知ゆる、島への旅さ幾度もシャシが、しばし遠のけば肝やサワジ」
(愛しい故郷の渡名喜、若い時は何とも思わなかったが、生まれ育った島だと今は思っている、島へ帰ろうといつも思っているが、時が経つと心が揺さぶられて堪られない)
隣りに渡名喜の出砂節の碑がある。
「出砂のいベや、いづみたちもたへる、鬼子だちもたえる、とのち里え子」
(出砂の蛸は、ヤドゥイシを抱いて繁殖する、トナキの里は真鍋を抱いて、子孫繁栄している)
島の南側半分近くは山が連なっている。一番高いのは大岳176mで、やや低い大本田岳、コム岳、義中岳が続いている。今は村の周りだけが畠地であるが、昔は人口も多く、南と北の山の高所まで石垣が組まれ、段々畠になっていた。平地だけでは食料を賄えず、明治中期より山に畠を作り、芋や麦を作っていた。今は竹や木々が繁っているが、昔の石積みは残っており、遠目にも山肌に横に続く石垣の筋が見える。
村の福木は防風のため植えられたもので、二百年を越す木が多い。周囲が一抱え以上もあり、樹齢230年から260年の表示のある福木が多く見られる。福木は高さ8m位に真直成長するので、路の両側に葉を繁らせてトンネルのようになっている処がかなりある。
本州とは異なり、沖縄の魚は鮮やかな色のものが多い。ガーラ(かすみあじ)ンジャーアチ(くろがわあじ)カチュー(かつお)アーラミーバイ(やいとはた)シルイュー(くるだい)ガチュン(目あじ)ガラサーミーバイ(いしだい)シルイチャー(あおりいか)チュラウジュル(もとぎす)カブクヮー(たかさご)ナカジューミーバイ(おじろばたはた)シチューマチ(あおだい)ゲンノーイラブチャー(なんようぶだい)と地方名で呼ばれている。
危険な海の生物として白黒斑の海蛇、オニダルマオコゼ、ゴンズイ、オニヒトデ、ガンガゼ、アンボイナ貝、ヒョウモンダコがいる。
村の路端に大きな丸石が置かれている。重さが十キロもある石でチキシと呼ばれ、昔若者が夜になるとこの石を地面に叩きつけて、悪霊を払っていた。以前は村中に五つあったが、今は一つしか残っていない。
家の門の処に、ススキの葉を締めの形に折った柴差(しばさし)と呼ぶ魔除けや、水字貝をいくつも並べた家もある。水字貝は巻貝の貝殻に5つの細い突起が伸びており、水の字に似ているので、この貝を玄関や門に掛けて火事除けとする。沖縄や奄美諸島で見られる風習である。
島の行事として水上運動会がある。大正8年(1919)に始められたもので、戦争中の中断を除いて、平成30年で百回目を迎えた。アガリ浜に幼稚園、小中の生徒と村人が集まり、水中縄引きや障害物競走、騎馬戦などを楽しんでいる。ハーリ(海神祭)は、小舟による村の字毎の競争が行われる。カシキーは綱引きで村の東西で行われ、豊作を祈願するもので、島出身者も参加し、歌や踊りで夜更けまで祭りが行われる。
港の近くに役場がある。役場までの県道188号は僅か25mの長さで、沖縄で最も短い県道である。夜になると、役場前からアガリ浜に続く六百m程の道は、両側にフットライトが灯る。外灯は他に無く、両側は福木並木の闇が続いている。足元だけがほんのりと黄色に照らされていて、小径は出合う人もなく、静寂の中に砂地を踏む音だけが聴こえてくる。各家の明かりも、フクギに遮られて少しも見えない。
アンジェーラ浜に面して高い崖が続いている。昔は崖下に一間程の歩道を開削していたが、今は海沿いに車道が出来ている。崖下の旧道には崩れ落ちた大石が並んでいる。落石の畏れと満潮の時は大波の危険もあり、昔は通るのも大変だったと思われる。
急坂を登って峠の遊歩道を巡ってみた。村花になっている河原撫子の花が群生していた。歩道から島の南に続く岩場や、崖に囲まれた小さな入江と砂浜を見ることができた。山の中には遭難した多良間島のタレーマ墓や、渡嘉敷島のアハラ-墓があるが、ハブが出る危険性があるので、訪れるのは止めにした。
一周道路の一番高い処に大本田(ウーンダ)展望台がある。久米島、粟国島、慶良間諸島が一望できるので、王府時代にはここに烽火台が置かれ、島から島へ狼煙によって信号を伝達していた。
展望台の入り口に、次の語が記されている。
「くの島の心や海そして集落風致には、沢山の数々の思い出がある。寄る年次みに里心増さて、眺めてぃん飽きらん、わが生まれし島変るなよ、姿幾代までぃん」島で生まれ育ち、島を離れ行った人の望郷の詞である。
池添 博彦 (8期)