寄稿・投稿離嶼沓徊

加計呂麻島(カケロマジマ)

鹿児島港よりフェリーに乗り、喜界島経由で奄美大島に向かった。名瀬から大島の北海岸沿いに古仁屋に着く。大島は平地が少なく、入江の多い複雑な海岸線が続いている。
奄美大島はサツマ芋の形をしており、北の名瀬と南の古仁屋が主な街である。古仁屋の向かいには南北の細長い加計呂麻島が横たわっており、その間の大島海峡はかなり狭く、波が無い穏やかな海である。
加計呂麻島の南側に請島(ウケジマ)と与路島(ヨロジマ)という小島が並んでおり、古仁屋から連絡船が出ている。二つの島に行くのには、前に横たわる加計呂麻島を回り込まなければならないので、かなり時間を要する。
奄美大島を初めて訪れたのは60年前である。九州一周の旅の途中で鹿児島に着いた時、大島行の小船があると聴いたので、予定を変えて行くことにした。

一昼夜船に揺られて名瀬についた。藁葺きの家が並び、本土とはかなり異なる暮らしぶりであった。当時未だ貴重な果物だったバナナを五房も買って、夢中で食べた記憶がある。
名瀬の隣の小村、知名瀬にある教会に暫らく泊めてもらい、バスで古仁屋に行き、小船で加計呂麻の諸鈍に渡った。
諸鈍の海岸沿いには樹齢三百年を越すデイゴの美事な並木がある。幹は太くゴツゴツした瘤が多い。曲がりくねった枝の先に赤い花が咲いていた。
このデイゴ並木は映画寅さんシリーズの最終回「寅次郎紅の花」(1995年7月)のロケに登場している。
諸鈍の大鈍神社では旧9月9日に、シバヤと称する平資盛(タイラノスケモリ)を祀る風流小踊や即興の狂言が演じられる。
演目はイッソオ(楽屋入り)、サンバト、ククワ節、シンジョウ節、キンコウ節、タマティユ(玉露)、ダットドン、シシキリ、ヌクテングワ、カマ踊り、タカキャマの順で上演される。
その後十年程前に再び加計呂麻に行った。名瀬でオートバイを借りて古仁屋に向った。昔と違い、数キロに及ぶ長いトンネルが幾つも山を貫いている。山越えの路に較べて、かなり距離が短くなっているが、ほとんど景色が見えず、味気ない感じがした。
加計呂麻島は長さ30㎞ほどで細長く、形は奄美や沖縄で採れる水字貝(水の字の形をした突起の多い貝)のように岬が多く、入江や湾が連なっている。島の入り組んだ地形を利用して、戦争中は特攻船の基地が造られ、軍に招集された若者が訓練を重ねていた。
フェリーの付く瀬相から東へ峠を越えると呑之浦(ノミノウラ)の入江になる。特攻艇震洋の基地があった処で、入江の崖下に十基の洞窟が海に向って掘られている。時を経ているため、入り口は木が繁っているが、中に入ってみると素掘りの壕が真っ直ぐに続いている。壕の一つに特攻艇の模型が置いてあった。黒塗りの一人乗りの船首に炸薬を登載し、自動車エンジンを装着して、敵の船を爆破する計画であった。
別に二人乗りの指揮艇があり、機銃を備えて後の特攻艇を導いていた。当時は入江に沿って弊社、弾薬庫、小作室、食糧庫が並んでいた。
震洋は昭和19年4月に軍部が提案した特殊兵器の一つで、特攻飛行機神風、小型潜水艇回天と共に、戦争末期に使用されたものである。鉄及び木製の試作艇は19年5月27日に試運転され、直ちに量産された。一人乗の一型改一と二人乗の指揮艇が作られた。
特攻艇の震洋が訓練を受けた横須賀の長浦港は、私に縁りのある地である。戦後長浦の海軍施設はイエズス会のミッションスクール栄光学園となり、港に面した建物をそのまま中学と高等学校になった。運動場の横には壕が幾つもあり、軍の使用した機材や備品が投げ込まれていた。がけの上には機銃を備えた見張台があり、突堤には小型飛行機の残骸が放置してあった。震洋が試作され実用化された十年後に、私はここで6年間の学生生活を過ごした。今は海上自衛隊の施設となっているが、私が学んだ校舎の一部はそのまま自衛隊に引き継がれて使用されている。
学校の前には波止場が幾つもあり、台風時期になると自衛隊の船がそこに避難して来た。
長浦湾の対岸には日魯漁業の基地があり、秋になると捕鯨船団が出港していき、留守家族が旗を振って見送る姿が、教室の窓から見られた。
作家の島尾敏雄は1917年横浜生まれで、九州大学で東洋史を専攻して1943年に卒業している。海軍予備学生となり、翌年特攻要員として配属された。特攻艇員として訓練を受け、1944年11月第18震洋隊183名を率いて基地設営後、呑之浦にて出撃を待つ日々を過ごしていた。
島尾は近くの押角(オシカク)国民学校に勤める大平ミホと知合い、死を目前にしながら逢瀬を重ねていた。
島尾の『国敗れて』には「一人だけ衛生兵をまじえた、百名ばかりの震洋特攻兵を分乗させた三隻の徴用漁船が、奄美群島加計呂麻を後にしたのは大島防衛隊のあった瀬相の桟橋からだった」とある。瀬相は特攻艇の兵員がいた呑之浦の北隣りの港である。
また『出孤島記』には「月の光を浴びて自殺艇乗組員たちが、整備隊員や掌機雷兵の協力で、此の月夜の下の南海の果てを乗り行く自分の艇を磨いていた。月も中天に昇った。もう発信の下令を待つばかりだった。不思議にこの世への執着を喪失してしまった」と期されている。日々出撃の訓練をしながら、常に自爆して死を待たねばならぬ極限まで緊迫した時を迎えていた。
ところが出撃の直前に戦争が終わりとなり、島尾敏雄と大平ミホは翌年神戸で結婚し、伸三とマヤが生まれた。
呑之浦の特攻基地跡に島尾敏雄の文学碑が建っている。碑の上部には敏雄、ミホ、長女マヤの遺骨を納めた墓が平成20年3月26日に築かれている。
島尾は昭和30年から50年まで名瀬で暮らし、61年11月に鹿児島で亡くなっている。
島の南端安脚場(アンキャバ)には強固な弾薬庫と兵隊が駐屯した兵舎が戦争の遺跡として残されている。
瀬相から加計呂麻トンネルを抜けた於斎(オサイ)にはガジュマルの巨木が見られる。一本の樹から気根が幾本も地上に垂れ下がり、まるで数十本の木が林を作っているような姿である。
ガジュマルは枝から下がった紐状の気根が地中に入り幹状になるため、一つの樹でありながら多くの支根を形成している。横に伸びた太い枝から縄が下げられてブランコが作られている。
十軒ばかりの小集落であるが、丘の上に厳島神社が作られており、台風除けと縁結びの御利益があるとされている。この二つには何か関連があるのだろうか。
海沿いに歩くと伊子茂(イコモ)集落がある。小中学校があり、小学校は生徒6名、中学校は8名である。中学校は女子7名男子1名で、社会の勉強をしていたが、男の子は少し寂しそうだった。
学校の裏手に西家の屋敷がある。小高い丘の上に蘇鉄が一列に並んでおり、一段上に石垣が築かれている。かなり大きな家で、砦のような感じである。庭も広く大きな屋敷が建っており、西家はこの地区の領主であった。現在当主は島を離れており無人である。
島の西部に嘉入(カニュウ)の滝がある。島唯一の滝で、かなりの落差があり、見応えのある滝である。その先方瀬戸内水道の反対側に須子茂(スコモ)集落がある。東西2ヶ所にノロが神事を行うアシャゲがあり、力石(チカライシ)が置かれている。
須子茂小の校庭にはデイゴの巨木が生えており、その隅にコンクリート製の奉安殿が残されている。天皇の御真影と教育勅語が安置され、戦争中は教師と生徒がこれを祀る儀式が行われていた。
昭和37年当時の須子茂小校長糸泰良(イトタイリョウ)の投書「追い詰められた僻地教育の悩み」がNHKラジオ『私達のことば』で読まれた。「国の補助金が打ち切られ、視聴覚教育のための自家発電がない」という内容である。当時加計呂麻島は夜間しか電気が使用できなかった。
これを聴いた鹿島建設社長の鹿島卯女(ウメ)さんは、発電機の購入資金援助を申し出た。それにより念願の発電機が設置され、映画鑑賞が実施できるようになった。
更に出稼ぎの多い島で留守を守る家族の心の支えとするために「母と子の像」を造って送ることにした。蔵は池辺瑠璃により一年後に完成し、昭和41年11月3日に除幕式が行われた。

請島(ウケジマ)

奄美大島から見ると、南に横たわる加計呂麻島の裏手にある小島である。大島の古仁屋から、小舟が加計呂麻をぐるっと廻って後ろの請島に着く。請島には請阿室(ウケアムロ)と池地(イケジ)の集落がある。船は二つの港に寄った後、隣の与路島に向かっていく。
請阿室と池地は共に40軒程の家があるが、多くの家には住人がおらず、島外に出て生活している。
二つの集落の間は山路になっており、峠を越さないと隣の集落には行けない。峠から向いの加計呂麻島が見える。すぐ下には無人の丹手島と小丹手島が並んでいる。
請阿室は小路が格子状になっており、村の南に公民館と墓地がある。戦没者碑に25名が刻まれており、そのうち9名は平、磧、城、渡、西などの一字姓である。磧はセキと読む姓で、意味は川原(カワラ)である。セキ姓は他に似た漢字を用いた碩、碵、硯がある。碩(セキ)は碩学(学問の深い人)に用いられる時であり、碵、硯(すずりの意)は各々テイ、ケンのオンしかないので、磧や碩の字を書き誤ったものであろう。
請島にはウケジママルバネクワガタがおり、固有種として文化財に指定されている。また大型の白い花をつけるウケユリが自生している。このユリはササユリの近縁種で香りが良く、江戸時代から珍重されており、百合のカサブランカの交配にも用いられた。
村のはずれに蘇鉄の群落がある。雌雄異種であり、3~4㎝の赤い卵形の実が数十個幹の登頂に群生している。実は有毒のサイカシンやホルムアルデヒドを含んでおり、昔は飢饉時の救荒食糧として用いられた。
実を砕いた後に水で晒し、毒抜きをして食料にする。ナリと呼ぶ実は大豆や米と混ぜてナリミソを作った。芯(茎)は割って日に干し、水に晒してから粥にした。今日では観賞植物に用いられる他に、実を薬用としたり、葉を日除けや編んで虫籠を作ったりしている。
池地の戦没者碑には37名の姓が刻まれていた。日清日露戦で6名、太平洋戦で31名が亡くなっている。一字姓は14名で栄、勇、磨、情、赫の姓があった。
池地は請阿室より少し大きい集落であるが、ここも空き家が多い。村の中央に小川があり、ガジュマルの大樹が二本枝を広げている。
池地には明治30年創立の小中学校がある。請阿室にはないので、生徒は峠を越えて通わなければならないが、今の処は生徒はいない。現在小学生は池地の4年と2年の女子二人だけで、中学校は生徒がいないので休校中である。先生は小学生担当の2人の他は校長、教頭と保健担当と校務(原文では甲務)の人がいる。
32代目の校長と暫らく話をしたが、昔は生徒が二百人以上もおり、かなり賑やかだったそうである。
校庭の横に奉安殿が残っている。戦時中に天皇の御真影と教育勅語を納めた施設である。生徒は登校時と下校時は必ずこの前で礼をしなければならず、四大節の祭日には校長は白手袋で御真影を掲げて拝礼式を行っていた。
小学校の高学年生は、天皇の名を初代神武より124代昭和まで続けて覚えなければならず、私の姉は時折思い出したように神武、綏靖(スイゼイ)、安寧、懿徳(イトク)……明治、大正、今上(キンジョウ)(昭和)と昔覚えた天皇の名を聴かせてくれた。これを覚えられない生徒は立たされたそうである。
戦後各地の奉安殿は壊されたが、大島近辺では十箇所以上の奉安殿が残されている。
池地の北には398mの大山が聳えている。村からは仰ぎ見るような高さで、頂上に連なるミョチョン(妙崖)岳から島全体が眺望できる。
九月の終わりに村人総出で豊作祭りが行われ、村中央の土俵で相撲大会が催される。大人から子供まで村の男総出の相撲である。

与路島(ヨロジマ)

請島より少し小さく集落は一つだけで、人口は60名である。家屋はかなりあるが空き家が多い。
与路小中学校は4、5、6年だけで計5名、中学生は1学生1名だけである。小学生の3人は他地区からの留学生である。先生は校長、教頭を含めて十人おり、小学校には生徒3人と2人の2クラス、中学校は一人の生徒に3人の先生が各教科を担当している。
与路や請島の小中学校は僻地手当が俸給と同じ位出るので、3年間の離島暮らしを2度繰り返すと、鹿児島市内に家を建てられると校長は話していた。
鹿児島には県名に島が付く位離島が多く、北は甑(コシキ)島列島、大隅諸島、吐噶喇列島、奄美群島と沖縄に近い与論島まで数十の島々が点在している。
児童が一人というのも珍しくなく、各学校は存続させるために山海留学制度を行っている。県や町村は補助金を出しており、中には北海道から姉弟で学びに来ている生徒もいた。
学校の裏手より山路を登り峠を越えると、島の西側の浜に出た。砂浜が続き突堤が一本つき出ている。珊瑚礁を壊して水深を保ち、船が横着けできるようになっている。
島は南北に長く、村は東側にあり、西側には家が無い。離島はどこも一島二港制により、風向きにより緊急時にも船が着けるようになっている。
山には椎、蘇鉄、桑、栴檀の木が生えている。学校の裏手にサガリ花の並木がある。30本位路に沿って植えてあり、枝の先から丸い殻をつけた花穂が下っている。長さ30~50cmにもなり、夕方になると殻が割れて細長くて白い線状の花が出てくる。20本ばかりの糸状の雄花が一点から放射状に伸び風に揺れている。花穂に花が幾つも下がり揺れる様は、他に類を見ない美しさである。開花期は夏から秋で、可憐で愛らしい花である。
花は日が上がると花穂から落ち、地上で風に震えているが、やがて生気をなくして萎れてしまう。サガリ花の木は大島以南に生育しており、琵琶に似た葉が互生している。
村の中央に集会所があり、道を挟んで戦没者の碑が建っている。日露戦で1名、第1次大戦で1名の他、太平洋戦で65名の名が記されている。
67名中27名は一字姓であり保、恵、福、何、与、栄、泰、高、川、坂、政、畑、元、祈、長の名が記されている。泊った民宿の姓は芳であった。
奄美、沖縄には一字姓の人が多くいる。これは本土政府が支配した時奄美、沖縄の人々に対して、二字姓を用いることを禁じたためである。沖縄では一字姓の他に、ヤマトンチュー(内地人)とは異なる文字遣いの姓を命じたとされる。
与路の集落は海と平行してあるアダンの並木の後ろに、平たい珊瑚を積み上げた石垣に囲まれて、家々が並んでいる。高さ1.5~2m、垣の幅は60㎝で、平らな珊瑚がきれいに重ねられている。
珊瑚は海中にある時は白いが、石垣にすると風化して濃い青色に変色する。与路の小路はどこも珊瑚の垣根が続いており、請島の集落のブロック塀に比べて美しく、風情が感じられる。
サンゴ垣は元々あったものだが、長年の内に崩れてしまったのを補修したものである。どの小路を歩いても風格のある垣を眺められるのは、南国の情緒があって愉しいのだが、難点が一つあった。
それは石垣には隙間があり、そこに毒蛇のハブが居付くことである。石垣には10~15メートル毎に木の棒が立て掛けてある。何のためだろうと訝しく思ったが、道を歩く時これを持ち、ハブが出たら除けるもので、ハブ棒と呼ばれていた。私はできるだけ石垣から離れて歩き、ハブ棒をしっかり握って村内を散策した。
この地方の年中行事としては、正月のウディ(蕪の花、代々の実を飾る祀り)、サンガツサンチ(旧3月3日に家族で潮干刈をする)、イザリ(引き潮の時、葉まで魚貝を採る)、豊年祭り(旧8月15日に村人が集まって相撲や踊りをする)、アラセツ(旧8月の丙(ヒノエ)の日に赤飯を炊いて新築の家を祝う)、シバサシ(新節に近い壬(ミズノエ)の日に芒(ススキ)を軒に挿して魔を払う)、クガツクンチ(旧9月9日に行う神社や権現(ゲンギン)の祭日)などがある。
今年は9月23日が豊年祭りの日で、普段村から出ている人々が家族を連れて村に戻ってきた。
前日集会場の周りは村人が掃き清め、土俵も幕が張られ、豊年祭りの看板と提灯が下げられた。
村主の挨拶が終ると相撲が始まった。学校の先生方も駆り出されて相撲をとっている。大人が終ると小ども相撲となり、小学生は女の子も参加している。終りに一歳児が大人に抱かれて土俵に上り、健康に育つように祝われていた。
相撲に続いて親子の民族踊りや、太鼓を打ち鳴らしながらの組踊りが行われた。
昼食の弁当と飲み物が配られて会食となった。私も遠くから訪れたので、この機会と思い、日本書紀にある日本武尊の国褒めの言葉を与路の島褒めの言葉に作り替えて朗詠した。
「与路の島は邦(クニ)のまほらま、たたなづく海原、潮(シオ)渡れる与路島しうるはし、命の全(マタ)けむ人は、たたみこも高岳の峯の、照葉木(テリハボク)が枝を髻華(ウズ)に挿せこの子」という詩である。

池添 博彦(8期)