寄稿・投稿栄光精神と華厳の波動

カンボジアの僻村でボランティァ教師になった横浜双葉の校長
2006年の春。7期の同窓会幹事が、同じカトリック系の横浜双葉校で校長をしていた漆原隆一君の話を聞く会を、逗子市の公民館の一室でひらいた。卒業後も兄弟のようなつきあいが続き、同窓会やゴルフ、新年会・忘年会などの集まりがあったが、これは臨時の会だという。
愛らしい少年だった漆原君は、白髪の紳士に変身していた。同級会には一度も出席したことがないと詫び、カンボジアのオー村の小学校で、ボランティア活動をしている、できれば御支援をと、そのいきさつを話しはじめた。
プロジェクターから映し出されたスクリーンには、窓ガラスのない掘っ立て小屋のような教室に、裸足や上半身裸の子らが群れていた。ただ不思議に、どの子の顔も屈託がなくて明るい。
カトリック神父になろうかと考え上智大に進んだ漆原君だが、神学科ではなく西洋史を専攻し、双葉の教師になった。50代半ばで校長になり、そのまま学園にいても良かったのだが、65を前に自主退職。息子がカンボジアで働いており、激励がてら旅行にいったところ、たまたま覗いた現地の小学校のあまりの酷い学習環境と、小学校にすら通えない子らもいる貧しさに愕然とした。
そこでアンコールワット観光の拠点であるシェムリアップ市に居を移し、オー村にはジープで往復しながら、ともにカトリック信徒である音楽家の妻恭子さんと支援活動を始めたというのである。
私は中3で洗礼を受けたが、とうに廃刊になった校内誌『栄光』の編集長をしていた高2の時に「不良」として睨まれ、クリスチャン教員たちの問答無用の非寛容にあい、落第の憂き目にあった。そのため、早くに教会から遠のいていた。
早稲田に進んでから、和辻哲郎の『風土』を手はじめに、中央公論社の『世界史』を通読した。暗黒の中世、十字軍、魔女裁判、ガリレオの弾圧など、ローマ教会が関わる過去は、頂けないことが多すぎた。
きわめつきは、30代半ばに、宝石で飾られた金ピカの大型聖書を見た時だった。新婚旅行の途次に、バチカン美術館を訪れたところ、金ピカ聖書が何冊も陳列されていたのだ。キリストの清貧の教えとは真逆のシロモノを、わざわざ展示している理由は何だろう。権威の誇示か、自虐まじりの反省か?
どちらにせよ、苛斂誅求に喘ぐ庶民たちの顔が見えた気がして、「こりゃダメだ」とローマ教会の俗物性に、心底愛想をつかした。
ところが、漆原君夫妻の慈善は、教会の傲慢な専横とは無縁の、個々のキリスト教徒が、過去2千年の歴史の至るところで示してきた「善行」の典型ではないか。「善行」とは相手の存在を認め、「一緒に頑張りましょう」と言葉と行為で伝え、言葉がダメなら心で伝える共生への願いを言う。

「隣人愛」と「免罪符」

狂気の共産主義者ポルポトにより、200万人が殺されたカンボジアの惨劇は、ハリウッド映画『キリング・フィールド』で世界に知れわたった。だが歴史や政治の非を数えたてても、オー村の子らは救えない。
人生が50年だった昭和前期までの還暦老人とは違い、身心ともにまだ若い7期OBたちは、古着とカンパぐらいは集めようとその場で取り決め、十人近くが幹事となり、年の瀬には、それなりのクリスマスプレゼントを贈ることができた。
そのプレゼントは年に2度に増え、数年後からは、何人かが連れだち、アンコールワット見学を兼ねてオー村を訪ね、子らとの交歓会をはじめた。なんとカンボジアには古来の民族音楽しかなく、子らは西洋のドレミの音階を知らなかった。
それを聞いたピアノの巧みな一人は、キーボードピアノ3台を持参して寄贈し、子供たちと合同音楽会を開くなどして交流の度を深めた。
横浜双葉の教え子や学園関係者の支援も同時進行で拡大しており、Tシャツ集めや文房具、資金作りのための支援コンサートなどが、湘南の地で定期的に開催されるようになった。
それから7年後の真夏。意欲のある児童生徒への奨学金制度も発足させていた漆原君は、シェムリアップのホテル内のプールで水泳中、心筋梗塞のために急逝した。
鎌倉雪の下教会でひらかれた漆原君の会葬は、聖堂に入りきれない千人をこす参列者で埋まった。ミサの後に7期生たちと食事した席で「おれたち俗人の免罪符だったな」と自称〝転び伴天連〟の私がいうと、「俺はクリスチャンじゃないが、フォス校長たちが生徒に求めていた、栄光精神の人ってことだろう」と元テレビマン氏もうなずいた。
恭子夫人はその後も残って支援をつづけている。奨学生の中の男女二人が、高卒後に2年間の教員養成学校に進み、さらに2年の研修も終え、カンボジアでは難関とされる公立小教師の資格を得て、なんとふるさとのオー村の先生になって戻ってきたという。亡き夫もきっと喜んでいますと、恭子夫人はご自身で発行している『カンボジア通信2019年冬号』に記している。
高卒の肩書きはカンボジアではエリートである。他にも有名ホテルやレストランに就職したり、幸せな結婚ができた女性もあらわれた。漆原夫妻のキリスト者の名にふさわしい「隣人愛」は、オー村の子らと村人たちに、彼らが夢想だにしなかった希望と、やればできるという誇りと自信を、いまも贈りつづけている。
その様子を見知った時、「これぞ華厳の波動だ」と、私は一人感じ入った。「華厳の波動」とは思いやりや善行の広がりをさし、それが多い民族ほど、文化度の高い、安全で暮らしやすい社会をつくれる。

原初仏教と『華厳経』

仏教には2種類ある。釈尊が悟道した35歳から寂滅した80歳までに説いた生き方論が、原初の仏教であり、『阿含経=あごんきょう(伝わったお経、の意)』や『法句経(真理の言葉集)』が有名である。
初期の仏教集団を庇護していたのは、ヒマラヤ山麓のコーサラ国王だった。王はある時、この世で最も大事なのはやはり自分自身だと実感し、そなたはどうか、と茉莉花(マッリカー)妃に質問した。すると「私も自分が一番可愛く、次があなたです」という正直な答えがあった。だが自分第一という考え方は、釈尊の利他の精神に反するのではないか。国王が急ぎ祇園精舎に釈尊を訪ねると、次の偈(げ)が返ってきた。
「人の思いは、世界のどこにでも自由に飛んでいくことができる。しかし、どこに行こうと、自分より愛しいものを見つけることはできない。されば、自分を愛する者は、他人を害するなかれ」 
それは「不害の教え」として語りつがれ、その問答から約200年後、インド統一をはたしたアショカ大王は、仏教を国教と定めて、全土の石柱や磨崖に、釈尊の教えを彫りこませた。その偈(げ)により、人類は狼の論理から羊の論理に転換したと位置づけられている。
もう一つの仏教は、釈尊の没後300年ほどしてから創作されはじめた教典群で、大乗教と呼ばれている。阿弥陀経、大般若経、法華経、涅槃経など、深甚で空想力に富み、じつに面白いのだが、釈尊が語ったものとは言えない。
ところが、筑摩書房の平易に書かれた「仏教全集」に目を通すと、空想の所産の『華厳経』が、なぜかピンときた。人と人とのつながりを「網と真球」に見たてた解説が、妙に腑に落ちたのである。
華厳経の本尊は、あの奈良の大仏様である。仏国土による国家の安寧を目ざした聖武天皇は、全国に護国寺を建立し、本山の奈良東大寺に、盧遮那仏(るしゃなぶつ)を安置した。真理の光で世界の隅々を照らしだす仏とされ、聖武天皇が大仏像を黄金で塗装しようとしたのは、庶民に分かりやすく示したかったからである。
その華厳経によると、人は、縦横上下に無限に広がるジャングルジム状の網の、すべての結び目に付着している水晶玉だという。それも傷ひとつない完璧な真球なので、一個ごとに全世界が映しだされており、一つが揺れると、その波動は無限に広がり、思いがけない場所の玉へと伝わっていく。無限に伝わる網とは物質ではなく、形には見えない「心」ということだろう。
漆原夫妻にたとえると、お二人の真球の波動が、オー村の人たちや、栄光仲間、双葉関係者らの真球に伝わり、いまなお揺らしつづけていることになる。

石井 龍雄 (7期入学・8期卒業)