寄稿・投稿マオリの友

1999年暮、NZ人の患者に熱心な勧めを受けはじめてNZに 旅立った。オークランド空港のバスドライバーは原住民マオリに逢うという私の真剣な趣意を快く呑み込んでくれてワイタンギ条約記念館(原住民・英国間で結ばれた条約。難儀な紆余曲折があった)に案内してくれた。受付に来意を告げるとすぐ奥の間に通され柔和な笑顔の館長に迎えられた。氏の名はJohnny Edmonds。「私が純粋のマオリです」と、心中を察したかのごとく自己紹介されて、広い敷地内を条約の込み入った経緯の歴史について話しながら案内して回ってくれた。
続く北端へのバスの旅では原始の森、レインガ岬からの南太平洋とタスマン海と太平洋の邂逅による壮観な帯状の海流などに見惚れているうち自分の遠い過去が彷彿として来てとうとうここに故郷を見つけたとさえ感じたほどだった。不幸な戦争による疎開生活のために故郷と呼べるものはなかったから。
またある日小さな観光船の船底で、日本の歌謡曲を歌ってくれたマオリの女性の声の響きに感銘して、尋ねたら発声法が西洋とは違うという一種不思議な答えが返ってきた。
その後Johnny氏 と設立した基金に基づいて家族の相互滞在や演奏家、装飾品、食事、医療(マオリは精神医療に薬を使わない)、我が国大学での講演、ツーリズムなどなどの華やかな交換の時期がしばらく続いた。またアイヌも参加した世界原住民大会はJohnny氏主宰でNZの北島で催された。
しかし、一方 NZ国内では原住民蔑視の念は根強い。白人の判事は友人の判決に一方的であつた。冤罪に彼は涙した。私は不可解な差別意識に憤懣やる方なかった。 2000年5月2日夕、Johnnyの義兄に迎えられ、ウクレレ演奏やら粗末でも心づくしの馳走の後、別れのロビーで向かいに腰かけた彼から受けた移住の勧誘を断らざるを得なかった私は、あまりの辛さに身から血が滲み出る思いがした。こんな体験は今後ともないだろう。
最近Johnnyも長年の病から他界されたとの訃報を受け取った。
小稿をJohnnyの墓前に捧げます

品川 秀夫 (4期)