屋久島の北側に三つの小島が東西に並んでおり、その真ん中に硫黄島がある。鹿児島から週に一、二度村営船が出ているが、乗船するのは島の住民だけである。
島に近づくと703mの硫黄岳の異様な姿が目に付く。山のあちこちから蒸気が出ており、硫黄の強いにおいが鼻をつく。島の大半を硫黄岳が占めており、港のそばに小さな集落がある。港は溶けた硫黄で黄色に染まっており、船がつくと海底に積もった硫黄が湧き上がってくる。
硫黄岳には60年前まで硫黄鉱山があり、火薬の原料として硫黄が採掘され、中国にも輸出されていた。山の中腹には硫黄採取小屋やトロッコの軌道が残っている。
麓の海辺には温泉が湧いており、波の音を聞きながら、湯を愉しめる。村の人は集落の温泉を利用するので、海辺の湯はいつでも一人で硫黄岳を仰ぎながら、ゆったりした時を過ごすことができた。島にいる間は朝夕の二回、雨が降っても温泉に入りに行った。
島には一時、リゾートをつくる計画があり、移入されて置き去りにされた孔雀が村の中を餌を求めて歩いていたが、少々違和感を覚える光景であった。
村の中央に熊野神社がある。その隣には安徳帝と従者が住んだ皇居跡とされる処がある。帝の墓を囲んで、従者一同の墓が並んでいる。
歴史では安徳天皇は壇ノ浦で入水したと伝えられるが、当地では生き延びて島に着き、清盛の孫の娘を后として隆盛親王が生まれ、子孫が島で生き続けたとされている。
同様の話は、対馬南端の豆酘地方にもあり、山裾に安徳天皇とその関係者の墓とされるものが並んでいるのを見たことがある。
硫黄島中央の小川のそばに俊覚堂がある。六畳ほどの竹を編んだ庵である。俊覚は仁和寺法印寛雅の子で、治承元年(1177年)平家討伐を謀った罪により、鬼界島と呼ばれていた硫黄島に流された。
先に流された者は翌年の恩赦で許されたが、俊覚は許されず島で亡くなった。島では俊覚の霊を祀るために柱松の行事を行っている。港近くの浜に20mの柱を立てて火をつけ、俊覚の霊を送る行事を夏に続けている。平成8年と23年には中村勘三郎がこの浜辺で追悼の歌舞伎「俊覚」を演じている。
「平家物語」によると、平安末期硫黄島には熊野三山があったと記されている。店舗四年(1833年)の「三国名勝図絵」には、硫黄島の熊野神社が「熊野三社権現社」と書かれている。島に流された平康頼は熊野社に対する信心が篤く、硫黄島に熊野三山を勧請して、帰洛を願っていた。
熊野三社に擬えると俊覚堂が本宮、熊野神社が新宮となる。那智滝をご神体とする那智神社に相当するのは硫黄岳の山腹に雨天の時に生ずる滝である。
紀伊半島の熊野三山に相当する各神社が、硫黄島にも設けられていたのである。
池添 博彦 (8期)