多良間は宮古島と石垣島の間にある平坦な島で、一周しても一時間ほどの島である。
宮古からフェリーに乗ると、3時間で多良間に着く。フェリー乗り場には多良間方言で男はビキドゥン、女はミドゥンと表示されていた。
多良間は八月踊りが有名で、島外から多くの人が訪れている。旧暦の八月に行われるもので、芝居や組踊り、劇、歌や各種の舞踏が村の広場で朝から夜まで行われる。
組踊りは中国からの冊封使を歓待するために、沖縄で演じられた芸能で、琉球の古語による台詞と歌曲、踊りを組み合わせた歌舞劇である。
1719年尚敬王の冊封を受けるときに、歓迎する席で初めて演じられた芸能であり、明治中期にその芸能が多良間に伝えられ、今日まで八月踊りとして行われている。
八月踊りは島の塩川と中筋の集落にわかれて三日間、各種の芸能を競い合う。集落の人々はこの日のために、かなり前から準備しており、小中学校の先生まで駆り出されて、歌や踊りを披露していた。
村の人々はそれぞれ御馳走を作り、会場に集まって八月踊りを愉しんでいた。
多良間では一時、嫁不足を補うために、フィリピンから嫁を迎える人が生じたため、子供の数が増え、全国でも珍しい高出生率の島として有名になったことがある。
多良間は砂糖、葉タバコ、南瓜や牛の育成が主に行われている。砂糖黍は3月に植えて、翌年の一月に刈りとる春植えと、7月に植えて翌々年の2月に刈りとる夏植えがある。
港にはシュンカニの母子像がある。1637年八重山地方には過酷な人頭税が課せられていた。沖縄より赴任した役人に当てが藁田むる芽をウェーンマと称した。役人は2,3年の任期で島を去っていった。
シュンカニの像は役人に与えられ、島に残された母子の像である。像の下には「主(シュ)が船(フニ)うしきがよ、東(アガリ)ん立つ白雲(シラフム)たきよ」(あなたの船は去ってしまう、東の空には白雲だけが見えている)と記されている。
島の南にある普天間御嶽(うたき)では、ユタに息子の高校合格を頼む人がいた。ユタは祭壇の前で祈っていたが、訛りのある言葉なので、全く解らなかった。
祈り終わると煮染めが、同席した私にも出された。この地方では、ユタは内地の神職にあたり、各種の神事を執り行っている。ユタは霊感のある女性がなるものとされている。
安政4年(1857)蘭船ファンボッセ号はシンガポールに向かう途中多良間で座礁し遭難した。上院27名は筏で多良間に上陸した。島民は彼らを篤くもてなし、6月4日に宮古、那覇を経て長崎の出島に送り届けた。多良間資料館には難船の瓶、砥石、鎌などが展示されている。
岩手の善宝丸7名は江戸から帰る途中遭難して75日間漂流した後、安政6年(1859)に多良間に漂着した。島民は7名を53日間もて成し、郷里に送り届けた。古文書によりこの事実を知った関係者は、1976年に多良間に赴き報恩の碑を立てている。
池添 博彦 (8期)