第1回大正9年(1920年)「世界と戦える長距離・マラソンランナーを育てる」を課題としてスタートした東京箱根間往復大学駅伝競走(以下箱根駅伝)は、第101回を 2025年(令和7年)1月2日3日行われ青山学院大学が総合優勝しました。
この正月恒例の行事となった箱根駅伝に、私は第38回大会1962年(昭和37年)、第39回大会1963年(昭和38年)、第40回大会1964年(昭和39年)に慶応義塾大学の選手として3年連続出場しました。
栄光時代陸上競技部に少しだけ所属した私が、何故箱根駅伝を目指したかといいますと、栄光の中学時代の友人K君が、慶応義塾附属高校の競走部で活躍していました。私が慶応義塾大学に合格したのを知り、一緒に箱根駅伝を目指そうと誘ってくれたのがきっかけでした。長距離ランナーにとって、箱根駅伝は、見るものではなく、何としても走りたい[あこがれ]である。また当時の慶応の長距離人数は、15~16名で高校時代経験のあるランナーは少なく、”素人軍団”の集まりでした。実績のない私が出来るか悩みましたが、「頑張れば出場のチャンスがある」やってみようと決心し、体育会競走部に入部しました。
当然のことですが、最初は皆について行くことは出来ません。トラックの外周を毎日トコトコ走って、基礎体力、走力作りに務めました。夏に入りようやく、皆と同じ練習が出来る様になり、夏合宿に参加出来、つらい練習をやり遂げて「出来る」と自信が生まれました。
1年生の1961年は予選会を通過出来ませんでした。2年生の第38回大会1962年は予選会を4位で通過し(5位まで出場可)、3年ぶりの出場となりました。私は第8区(平塚~戸塚間19.9キロ)にエントリーされました。7区のランナーは私を誘ってくれたK君です。栄光学園中学コンビのタスキリレーです。初出場で伴走車からの監督の声も聞き取れないほど、無我夢中で訳が分からないまま、難所の遊行寺坂を上りきり、9区のランナーにタスキをつなぎました。区間14位でした。3年生の第39回大会1963年 4年生の第40回大会1964年も予選会を突破し、連続10区(鶴見~東京間21.7キロ)を任されました。10区を務めた時は残念ながら繰り上げ出走となり、タスキを受けとれませんでした。アンカーとして責任を果たすべき、読売新聞社前のゴールを目指し全力を出し切りました。第39回大会は区間10位 第40回大会は区間11位でした。ゴール近くの西銀座の声援が、印象深く残っています。
K君も第39回大会は第6区(箱根・芦ノ湖~小田原間)、第40回大会は第1区(読売新聞社前~鶴見間)を走りました。K君も3年連続出場しました。
1987年(昭和62年)第63回大会から日本テレビが全区間生中継を行うようになり、正月の風物詩となりました。各大学も有望な高校生獲得に力を入れ、私の時代予選会出場校は15~20校程度、現在は40校以上になり、箱根駅伝に出場するのは大変難しくなりました。
時代が違うとはいえ私が3年連続して出場出来たのは、チームメイトの箱根駅伝にかける執念と毎日毎日走り続けた努力は勿論のことだが、素人を厳しい中にも温かく見捨てずに、指導を賜った監督、コーチ、諸先輩の力なくしてはあり得なかったと思います。
又誘ってくれたK君にも感謝です。
あの時期巡り会った仲間たちのこと、思いを一に夢を追い、水分補給の出来なかつた、苦しい練習を乗り越えたことなどが、60年過ぎても熱く燃え続け、我が母校が、出場するのを夢見ています。
山野井 毅彦 (8期)