ホーム活動報告・会報記事寄稿・投稿最初で最後となった箱根駅伝の思い出

寄稿・投稿最初で最後となった箱根駅伝の思い出

1984年1月2日10時24分6秒、第60回箱根駅伝記念大会横浜戸塚中継所。先頭早稲田大通過後10分。繰上スタートの号砲が鳴り4校の走者が出発。
予選会7位通過の東京大学3区走者として、平塚まで21.3Kmを走る最初で最後の箱根駅伝が始まりました。
東大が箱根駅伝?あれと思う方が多いでしょう。当時は予選会上位6校を含め、本選出場は15校。東大は予選会最高8位ともう一歩のところ。
ところが60回は記念大会で、5校を増枠となり、前年11月の予選会で過去最高の7位で悲願の初出場となりました。
目標は、本選での15位以内です。ただし、強豪校との差は歴然。往路で襷をつなぐには各区でトップから5分以内で走る必要があり、監督からは「最悪は全員繰上もあるぞ」と言われていました。
果たしての繰上スタートでの出発、弱気と強気が交錯する複雑な気持ちです。順位は17位、調子は悪くありません。15位に上がって、襷をつなぐことを目標に、4名の17位集団からすぐに抜け出し、前の走者を追いかけます。
原宿交差点、遊行寺坂と快調に走ります。藤沢市中心部付近では、栄光関係者でしょうか、個人名での応援も多くありました。本当に力となりました。
中高はバスケ部所属でしたが、大した貢献はできませんでした。
大学では心機一転、陸上部の門を叩きましたが、その時は箱根駅伝に「出場する」などは夢にも思いませんでした。1年目は故障続き。
2年目でまともな練習開始。3年目で実力が着き始めた時に千載一遇のチャンスに恵まれたのです。地元ということもあり、本戦での3区出走を自ら志願しました。
辻堂を過ぎ、海沿いの国道134号に出たころは気温も上がり疲れが出始めます。前との差は一向に縮まらず、後方のジープに乗ったコーチからは「檄」が飛びます。苦しい中、前方に聳える富士山がきれいだったのが今でも鮮明に印象に残っています。
最後の力を振り絞り、平塚中継上で倒れこむように先輩の4区走者に襷を渡しました。
1時間10分2秒、区間15位。襷こそつなげましたが、順位は17位のまま、タイムも試走より30秒遅いです。東大はその後各区走者が皆健闘しましたが、襷はつながらず順位は17位のままで最初で最後の箱根駅伝は終了しました。
マラソンの瀬古利彦選手のDNAを継いだ早稲田が断トツの1位でしたが、増枠5校には、法政、明治、慶應が入っており、東京六大学中5大学が参加という大会でした。
これを機に、箱根駅伝への関心が一気に高まり、87年にはTV放送開始、その後は新規の大学の参入も始まり、現在のブームにつながっています。ただ、皮肉なことに、逆に東大出場のハードルは高まる一方で、その後の本選参加はいまだありません。
ただし、今年は一つの大きなトピックスがありました。兄弟校の六甲学院出身の東大秋吉選手が、学連選抜として8区に出走。
一時は区間記録となる快走で走り切り、戸塚中継所で同じ東大大学院で学連選抜の古川選手に襷をつないだのです。
参考記録ではありますが、41年ぶりの赤門襷リレーとして注目され、私も非常にたくさんの勇気をもらいました。
秋吉選手活躍の原点には、「急坂の登下校」、「中間体操」、そして特に「強歩会」があると言っています。同じような環境で中高6年間心身を鍛錬している本学園の卒業生が(欲を言えば東大のブルーのユニフォームで)新春の箱根路を快走する日が来るのを願ってやみません。

最後になりますが、この日の走りと、栄光学園にかかわるエピソードを紹介します。
当時は、大学のグランド近くに一人暮らししていましたが、地元の大会ということで大晦日に鎌倉の実家に戻っていました。
問題は翌日、レース前日の練習/調整で、深い考えもなく自宅から3Kmにある栄光のグランドを選びました。
若気の至り、本来なら一言お断りをいれるべきだったでしょうが、大会のことで頭がいっぱいでした。
本番の出走時間に合わせた1月1日元旦の午前10時~12時、人っ子一人いないグランドを我が物顔に走り回ったのです。
今なら、警備会社や警察に通報されたかもしれませんが、おおらかな当時学園の先生方のお咎めもなく無事に調整ができました。
後日、人づてにお聞きしたのですが、実は私のこと、そして翌日の大会のことは聞いており、暖かく見守っていただいたとのことでした。
時間は経ってしまいましたが、この場で、無断借用のお詫びと、完璧な調整ができたことの御礼を申し上げたいと思います。

栗田 晴彦 (29期)

初出場の東大17位/写真で見る第60回箱根駅伝 - 箱根駅伝 : 日刊スポーツ

1984年1月2日、3区を駆ける栗田さん(栗田氏提供)