26期は、56歳の時に約30年ぶりに開催後、2年に1回の新年1月2日に開催してきたが、コロナで一服。4年ぶりとなったが、今回はもろもろ家族が集まって出席困難な年始から変え、12月29日(金)に執り行われた。「26期はやたら会場がリッチだなぁ」との声も多く聞こえる中、また今回も『横浜ベイホテル東急』。39名の同窓生に、恩師に梅津先生、石川先生、迫先生、金子好光先生にご出席いただいた。多くが4年前に顔を合わせた仲間だったが、向原彰秀はほぼ40年ぶりか?しかし皆「おっ、ムコウハラ。」とわかる。体形も全く現役当時の少女漫画から飛び出たようなスリムな美少年まま、髪だけがやや白くなっていた。
今回も山田真平の司会で進行する。4年前の開催以降逝去された恩師方、また3名の同期生に対し黙祷をささげた後、宴が始まった。同窓生すら60代半ば、だから恩師の皆様の元気さにはアタマが下がる。迫先生のご指導のもと、体操も行う。
2時間半におよぶ宴も、あっという間に過ぎる。その中で半数近い15名が、2次会に集結する。そんなメンバーの中に中島拓も居た。「すっかり田舎の爺さんになっちまったよ。みんなと標準語でしゃべれるかな?」同期会出席報告にこのようにコメント。当日は、私の姿を見つけた途端「やぁ、ワンちゃんの具合、どうだ?」と、前週に入院した我が愛犬のことを気遣ってくれた。
中島拓は、こしひかりと銘酒八海山で名高い魚沼で、脳外科内科医として豪雪のなか東京23区の倍に及ぶエリアにクルマを走らせ訪問診療を行うなど、体を張って地域の医療を担っていた。フットワークの軽さは診療に留まらず、料理・日本酒にワイン、また音楽をも愛し、2016年には「新しい地域医療の展開」として高一OBゼミに登壇された。
この年末の同期会後の年明けて2月。障がいを抱えた子供たちを対象とした『ホワイトハンドコーラスNippon』が、ウィーンの国連で「第九」を合唱するという大イベントに同行医師としてご夫婦で随行。子供たちが、手と表情で表現する「手歌」(ルビ:しゅか)などで合唱する様子は中島のFacebookでも報告され、多くの同窓生が「さすが栄光生!」と絶賛していた。中島は同行医師として子供たちにそっと寄り添い、陰ながら支えていたという。
苦労を笑いに替えるたくましさ、そして優しさと気配りの男だ。
その中島拓が、帰国直後の3月10日急逝した。同期生全員に訃報を発信。山下純照は叫んだ。「そんな。あり得ない! 年末の同窓会で、僕のスピーチのあと寄ってきて、妻を亡くした僕の状態を心配し、両手でこちらの掌を包むようにして慰めてくれたんだ!」
3日後の通夜には中村徹・伴耕一、その翌日の告別式には成瀬卓也と山下、小生が駆けつけた。私は斎場に着き、奥さまの姿を見た途端涙腺が破裂。奥さまは「主人は学園をとても愛し、誇りにしていました」と涙ながらにも気丈に語られた。葬儀場の入口には「他者のために他者と生きる」と記された遺影が飾られていた。他者のために尽くすことが、当然のライフワークになっていたのだろう。
式は滞りなく進行したが、焼香が完了しても、多くの普段着の市民・患者さんと思われる皆さん何百人もが花を捧げ、列が途絶えない。中島がいかに地元の人たちに信頼され、慕われ、愛されていたかを物語っていた。参列者が絶えない光景を見た同期の皆が唸った。「誇りだ!」と。
帰りの浦佐駅で、94歳になるお母さまと妹さんに会う。お母さまは車椅子ながらも、いろいろお話を伺った。「あの子はね、病気がちだった私と主人を見て『僕が医者になって、お父さんお母さんの病気を治してあげるんだ』って。だから絶対栄光に入るんだと頑張ったのよ。ただ医者までの道は、いろいろ寄り道もした。でも雪深いこの地で開業するにも『僕は旭川育ちだから、こんな雪へっちゃらだよ』だって。拓は短かったけど、幸せな人生だったはず。やりたいこと、やりがいのあること、人のために頑張りきれたんだもの。私にはわかるのよ。私も拓の分、100まで頑張らなきゃね」。成瀬・山下・小生の三人は代わる代わる、お母さまの手を固く握りしめたのだった。
お父さまは2期生で、拓は栄光二世の第一号。栄光精神は生まれた時からお父さまから中島に伝わり、それを生かし地域医療を支えてきたのだ。拓よ、俺たちは君に会える日まで、君を忘れない!
※文中26期生は敬称略