各期活動19期同期会報告

同期のヒラヤマ君が総支配人を務める横浜駅近くのデザイナーズホテル「HOTEL PLUMM」では毎回、ぼくら19期の同期会が開かれるが、それは単なる「会場」ではない。ドアから一歩中へ足を踏み入れた瞬間、誰もが10代の「栄光生」に戻るタイムマシンのような時空間だ。
2025年7月26日に開催した同期会は「中学入学60周年記念」。その日、ぼくらは1965(昭和40)年にタイムスリップした。60年前、19期生は大船1期生としてピカピカの校舎に足を踏み入れた。当時と今との違いは、片手にビールか、ワインか、ハイボールのグラスを持っていることくらいで、たわいのない会話はほとんど変わらない。
今や19期お抱えバンドとなった軟庭部のメンバー中心のバンドSUS4の60年代ソングの演奏のあと、出席者63名による「入学時の思い出&近況報告」。
ステージに立つと、「○○です」と当時のあだ名を名乗る。そう、入学したての12~13歳の坊主たちが興じたのはあだ名づけだった。その多くは容姿風貌からだった。ある霊長類を連想させたことから「マンド」。背が高くて大人びていたから「酋長」、60年代に人気を博したデン助劇団の座長木村デンスケと名字が同じだから「キムデン」、中学1年の時、B組の担任だった稲田千秋先生のあだ名が「イナチ」だったのでそのアナロジーで「ヤマチ」、本名の「カズト」がなまって「ズンド」、本名を音読みして「オヤジ」……。
当日出席できなかった面々にも〝迷あだ名〟の数々があった。同期には、やたらとあだ名付けが巧い名手がいた。中には、つけられた本人はあまり喜ばないあだ名もあった。12~13歳の坊主たちにはあどけなさに隠れた無自覚な残酷さがままあった。
ただ、60年経った今も、その「喜ばないあだ名」も含め、同期をあだ名で呼ぶ。あだ名で呼んだ瞬間、悪意などなく無垢な気持ちでつき合い、じゃれ合っていた60年前の関係性が呼び起こされ、懐かしさで心揺さぶられるからだ。
あだ名とは別に、名字が同じ同期はファーストネームで呼んだ。一昨年亡くなった「シンスケ」はSUS4のドラム担当で、同期会での演奏中はステージの奥からいつも笑顔を投げかけてくれた。脳神経外科のドクターで、多くの同期のかかりつけ医でもあった。
「マサアキ」が3年前の前回の同期会では元気な姿を見せたのに、2週間後に急逝したときは本当に信じられなかった。サッカー部OB会のまとめ役だった。同期の死は悲しすぎる。同期会では2人の前回参加時の笑顔の写真がスクリーンに映され、ぼくらは心からの追悼の意を捧げた。
MEN FOR OTHERSという言葉。1973年、当時のイエズス会総長ペドロ・アルペ神父が欧州イエズス会学校卒業生の大会で投げかけたメッセージで、その後、イエズス会系の学校の教育理念とされるようになったという。だから、1965年から6年間の在学中、ぼくらはフォス校長(当時)の口からも聞いたことなく、正直なところ、あまり実感がわかない。
ただ、こんなことがあった。15年前、同期会で毎回、「Eiko high for ever」の合唱のピアノ伴奏を務めてくれたU君が末期がんで余命宣告をされた際、彼一人のためだけに同期会を計画したことがあった。残念ながら、開催の直前に彼は天に召され、同期会は追悼の会となった。
同期のみんな(all)がそこにいるとき、One for all, all for one.でありたい。その同期愛は実感をもっていえる。

勝見 明 (19期)