友人からの訃報はメールで、文字通り虚を衝かれた。だって、先月会った時はあんなに元気だったのに。
大木章次郎(あきじろう)神父。90歳を目前にして、昨年11月に帰天した。僕が最後に会ったのは10月の初めだった。「大木神父応援団」のようなグループで5年前に語り下ろしの『大木神父奮戦記』を自費出版した。その関係者が、大木先生を囲んで小さなパーティーをやるというので、編集を担当した僕にも声がかかった。大木神父は「伊万里の聖母修道院」に指導司祭として赴任していて、健康診断のために一時帰郷している、という話だった。場所はイエズス会石神井修道院、と聞いて気づくべきだったのだ。此処には使命を果たし終えたイエズス会士が晩年を過ごす「ロヨラハウス」がある。
この日の大木さんは、とても90間近には見えない相変わらずの風貌、笑顔とおしゃべりで皆を笑わせた。女子修道院の時代遅れの習慣やら、ネパール時代の武勇伝やら。僕には、「奥さんもお連れくださいと言ったのに、何故キミは一人で来たのか」と、得意の皮肉もチクリ。一杯のシャンパンを美味しそうに飲み、カナッペにも手を出していた。
健康診断の結果を尋ねると、「何故かみんなで私を病気にしたがるんだよな」と笑った。神父が日常生活で着用するスルタン、秋も深まるこの時期は黒がふつうなのに、この日はパリッと洗濯された夏用の白を着ていた。後で思い当たったのだけど、皆と最後のお別れのつもりだったのかもしれない。
11月の初め、通夜と告別ミサは四谷のイグナチオ教会で、何十年ぶりという者も含め、多くの旧友たちが顔を揃えた。大木先生は、カトリック修道会のイエズス会が経営する男子校で、中学1年から高校1年まで僕たちの訓育指導に当たった。身体つきはどちらかと言えば華奢で、今で言うイケメン。やたら目力が強く、一方でソフトな語り口。通夜の後の飲み屋で皆が口々に明かしたのだが、当時、僕たちの母親連中はみんなひと目でポォーッとなってたみたい。
でも、生徒にとっては口うるさい嫌な教師だった。「男なら泣き言を吐くな」「自分のことは自分でしなさい」「人を指さしてものを言ってはいけない」などなど。もっとも、その頃からズボンやYシャツのアイロンがけを習慣づけられたお陰で、今になって助かっているんだが。忘れられないのは、夏、海の家での遠泳訓練。伴泳しながらも、波を被ってちょっと水を飲んだくらいでは助けてくれない。自力で泳ぎ切れ、という教えだったのだろうけれど、あれは苦しかったなぁ。
前述の語り下し本で大木さんはこう語っている。〈私はね、「軍国主義に感謝してます」と父兄に話したんです。「それによって、わがままは許されないということ、そして頑張ることを学びました。それを皆様の息子さんにも自信を持って指導します。よろしいですか?」って。〉
改めて、大木章次郎とはどのような人だったのか。
大正15年(1926)1月3日生まれ。海軍軍人の祖父、熱心なカトリック信徒の両親という家庭環境で、主に横浜で育った。7人いる姉妹の多くが、後に修道女となっている。10歳の年に2・26事件があり、翌年には盧溝橋事件が勃発した。そして太平洋戦争が始まった翌年、上智大学の予科に入学した。昭和18年には学徒動員で先輩たちが戦場に送られた。21歳での徴兵制があり、学生も軍隊に行くのが当然という時代である。やがて徴兵年齢が引き下げられ、19歳から志願できるようになった。大学生から志願すれば、すぐに将校待遇だ。昭和20年の2月、予科3年19歳で海軍士官の試験に合格。翌3月に東京大空襲があり、ひと晩で10万人以上が犠牲となった。
入隊先は広島の大竹にあった海軍潜水学校である。憧れの士官用軍服、軍帽、短剣を支給されたまではよかったが、暫くすると上官から特攻志願を募る言い渡しがあった。「行く覚悟のある者は申し出よ」とは言うものの、志願しなかった数名は毎日、顔がボールのように膨れる鉄拳制裁を食らった。大木さん本人は、上智時代の神父の「友のために命を捧げるよりも大きな愛はない」という教えが頭にあり、迷わず志願した。海軍の場合、魚雷に人ひとりが乗り込めるように改造した特攻兵器「回天」。若者たちは「貴様らの命はあと4か月だ」「3か月だ」と言われながら訓練を続けた。そして8月6日、広島に原爆投下。潜水学校は爆心地から離れていたが、その日の午後には焼け爛れた人の群れが、広島から歩いてやってきた。地獄を目の当たりにした日から1週間あまりで、終戦。
横浜に帰った頃には、すでに心は決まっていた。特攻を志願した時から、万が一、生き延びることがあれば、それは神が自分を神父として用いようとしている証だろう、という思いがあった。学生時代から縁のあったイエズス会に入会。修練院での基礎学習が2年、ラテン語学習が2年、スコラ哲学が3年、試用の実務1年、最後に神学を2年。入会から10年、勉強漬けの生活を経て大木さんは神父となる叙階式の日を迎えた。
神父であり教師としての最初の赴任地が、当時は横須賀にあった前述、僕たちの男子校だった。10年後、今度は同じイエズス会が経営する広島の男子校へ。此処でも中学・高校の悪ガキたちを相手に、倫理の授業と訓育指導を受け持った。そしてさらに10年後、ネパールからの求人に応じて、カトマンズ行きを自ら志願した。すでに51歳になっていた。
ネパールはヒンドゥ教の国で、厳しいカースト制度によって縛られている。むろん他宗教への布教は禁じられていた。赴任したセント・ザビエル・スクールは、最上階層の子弟が集まるエリート校だった。2年間勤務したところで、いくつかの偶然が重なって、大木神父は次のミッションに向かった。カトマンズから西へ200キロ。ネパールの第2の都市ポカラに、障害児のための教育センター「シシュ・ビカス・ケンドラ」を創る仕事だった。体育や知育のカリキュラムから医療設備、手作り補聴器まで、大木神父は自力の創意工夫を総動員して障害児たちの自立をサポートした。
1990年代の後半になると、ネパールではマオイスト(毛沢東主義派)によるテロが横行し、カトリック系の教育施設も標的になった。麻薬中毒患者を更生させる活動を続けていた友人の神父が、首を切られて殺害された。その前には、仏舎利塔の建設に尽力していた日蓮宗の日本人僧侶が殺されていた。そして脅迫電話が、大木神父の施設にもきた。「次はおまえの番だ」。本人の機転と周囲の協力で、何とか事なきを得たのだった。
その後も託児所や診療所を開設するなど、大木神父は30年におよぶ活動をネパールで続けた。
2009年、イエズス会管区長の指示で帰国。ガラス越しに白銀のヒマラヤを望む教会堂の建設が、大木神父の心残りだった。その「聖アンナマリア教会」が、多くの支援者たちの手で、昨年春に除幕式を迎えることができた。それを見届けるかのような、いかにも大木さんらしい慌ただしい旅立ちだった。
(俳句同人誌「欅」2016年1・2月号掲載)
坂本 隆 (17期)