ホーム活動報告・会報記事学園だより大木先生の納骨式ミサにて 《人生を直滑降のようにまっすぐ走りとおされた》

学園だより大木先生の納骨式ミサにて 《人生を直滑降のようにまっすぐ走りとおされた》

昨年亡くなられた大木先生の納骨式が、今年3/5に東京四ッ谷のイグナチオ教会地下聖堂で行われました。ミサの司式は、大木先生の六甲学院(中学)での教え子でもあり、高校3年のとき司祭叙階(1956年・昭和31年、14期生入学は昭和35年)を受けられた大木神父の六甲での初ミサに与り、次の日のミサでは侍者をして、そのあと朝食をご一緒し、学校に遅刻してしまったという深いご縁で繋がった外川神父。大木神父がネパールに行かれたあとでは、フィリピンマニラでお会いし、ネパールでの再開をお約束したがかなわず、それ以来お会いするたびに「あなたは約束を守りませんでした」といじめられたとのこと。

また、食事を全く取ることができなくなられたときには、こんなやり取りがありました。点滴をしないとだめですよ、神様からいただいた命を医学に手伝ってもらって全うしないと、とお話した時には、神父様は、点滴などは役に立ちませんよ。それは誰の意向ですか、と尋ねられましたので、管区長の意向ですと答えました。すると、ここには管区長がいませんね。誰が責任者ですか。責任者は館長の私です。あなたの意見はどうですか。私の意見は神父様が点滴を受けて、また、食事をとるようになられることです。分かりました。従いましょう。

しっかりとした従順で私の申し出を受け止められました。このやり取りが、神父様からの最後の大きなメッセージとして心に残っています、とミサの中で挨拶とご紹介がありました。

ミサのあと、シスター大木(大木神父のお姉さま)から、最後まで介護をされたイエズス会の神父様が書かれた闘病中のご様子を綴ったお手紙を紹介して頂きました。昔の大木先生をご存知の方には、若かりし頃のお姿を髣髴とさせるもので、外川神父の言葉をお借りすれば、あたかもスキーの直滑降のようにまっすぐに人生を走りとおされたお方でした。

イエズス会上石神井修道院で大木神父のお世話を担当された柴田神父様からのご報告は以下のようでした。

オーストラリアから帰ってから、入退院や検査のため、ここの修道院に入られている大木神父さんを病院にお連れすることが何度かありました。特に、大木神父さんの検査の付き添いは私が専属のようになりました。大木神父さんは、(この部分、詳しくは「大木神父 奮戦記」に書かれていますので省略)日本に引き上げてからは、佐賀の伊万里のトラピストでチャプレンをしていました。けれども2ヶ月で10キロもやせてしまい、心配したシスターに「一度しっかり検査したほうがいい」と言われ、上石神井に来られました。大木神父さんは、「自分がやせたのは、お医者さんがメタボに気をつけなさいと言われてダイエットしたからです。シスターは心配しすぎ。貧血もダイエットの断食のせいです。」とよく言ってました。修道院では、貧血の原因を調べて治療する方針だったので、私は検査入院の付き添いを何度かしましたが、原因がわかりません。

そこで、紹介状を書いてもらった血液内科のある病院に検査のため、また付き添いました。けれども待ち時間がとても長くて、朝8時から夕方4時までかかることもあって、途中抜けて映画を観にいって、回転寿司を食べたり、病院嫌いの大木神父さんが飽きないようにいろいろしました。

そんなある検査の日、大木神父さんは食欲がなくて、何も食べていなかったですが、「どうせまた、2~3時間待たされるから、その間にチーズケーキでも食べましょう」といって出かけました。けれどもその日は、すぐに検査が始まりました。ベッドに横になった神父さんは介護士に、「貧血の原因はダイエットです」といつものように持論を展開して、最後まで、「検査は受けたくない、不本意だ」と伝えていました。

私は、「検査は受けたくないんだな。骨髄検査は痛いと聞いているし・・・。こんなときは、手巻き寿司のときに助けてもらったロザリオをしよう」と思い、神父さんに「控え室でロザリオしてますから頑張って下さいね」と声をかけました。神父さんは「ありがとう」とにっこり笑ってくれました。ロザリオ2環祈って待っていると検査が終わりました。疲れたようでしたが、大木神父さんは「看護師の方が、『やさしい息子さんが付き添ってくれて良かったですね』と言うから、『違います。一緒に住んでいるだけです』と答えた」と冗談交じりに話してくれました。その後、病院の喫茶店に行って、ココアとシフォンケーキを食べました。「ココアはおいしかったけどケーキは甘すぎた」と半分をわたしにくれました。骨髄検査を境に、大木神父さんの体力は一気に落ちて、食欲もなくなり寝たきりになってしまい、完全看護のロヨラ・ハウスの方に移りました。私は、「来週は一週間、山口に出張なので帰ってきたら借りてきた「永遠のゼロ(零戦の映画)」を一緒に見ましょうね」と声をかけました。

山口から戻って、骨髄検査の結果を聞きに行きました。大木神父さんは行けませんでした。お医者さんは、「データーはそんなに悪くない。白血病の手前です。急に寝たきりで動けなくなったのは解せない」と言われました。

翌日、容態が気になってお部屋をのぞきました。目が開いていたのである本をかざしましたが、反応がありません。私は、「骨髄検査が良くなかったのですね。検査受けたくなかったのに・・・。気持ちを汲めなくてごめんなさい。また、ご自分でミサができますように」と祈って、席をはずしました。それから、30分くらいして、「大木神父さんが亡くなられました」と連絡がありました。

あまりに急でした。すぐにお部屋に行って「あのとき、骨髄検査を受けていなかったら結果は変わっていたはず。本当にごめんなさい」と心の中で謝りました。

生前大木神父さんは、「今日もたくさんの時間を使わせてしまって・・・何から何までありがとう」とお礼の言葉は欠かしませんでした。でも私としては「付き添って時間も使ったけど・・・本当の気持ちを汲めていなかった。申し訳なかった。ごめんなさい」という気持ちがどうしてもあります。

「ありがとう」と「ごめんなさい」という二つの言葉。がかわるがわるよみがえってきます。それともうひとつ、[助けて下さい]と言う言葉。宣教師として大先輩の大木神父さんに、「どうか、大木神父さん、助けて下さい」と苦しくなったときにはお祈りして、助けをお願いしたいと思っています。

最後に、大木神父の骨壷を全員で順番に胸に抱き、ご冥福をお祈りしながら先人の神父様と並んでお納めしました。

新井 隆 (14期)

(2007年頃の大木神父)

(野外ミサの様子)