新校舎の建築が進む中、64期の卒業式が行われました。卒業生代表I君の「卒業生のことば」の一部を紹介します。
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私の栄光学園の第一印象は、広い、でした。それは無論、敷地の物理的な広さとして目に映りましたが、それ以上に、ここに集う人々の心の広さも感じたのを覚えています。
その直感は当たっていたようです。栄光は、多様性に極めて寛容でした。多彩な個性や多彩な経験を尊ぶ学校でした。例えば、御存じのように、栄光には生徒にも先生方にも、多岐に渡る才能の溢れた、変な人が少なくありません。休み時間中、数式と満面の笑みで睨めっこしている者から、一度楽器を握らせれば天下一品の人まで。読む者を唸らせる様な名文の書き手もいれば、目を見張るほど絵の上手い人もいます。現代文化への愛が滲み出すぎている人も数多くいます。縄跳びの上手な数学の先生もいました。しかし自分の才を鼻にかけ、傍若無人な態度をとる輩や、他者の能力を妬んで出る杭を打とうとする輩はいません。それは、互いの個性を尊重し、仲間の優れた点を素直に認められる大らかさの証明ではないでしょうか。
様々な魅力に溢れた仲間たちに囲まれて過ごしたこの六年間は、私にとっては刺激の連続でした。日々の授業の中で、同じ問題に様々な別解を出し合ったこと、廊下の雑談を通して、全く知らなかった分野に目を開かされたこと、また文化祭・体育祭・部活動等で仲間の考え方と真っ向からぶつかり合ったこと。一つ一つの経験が、我々の視野を大きく広げていきました。
多様性を大切にする、という文言は、ともすれば巷に溢れる陳腐なキャッチコピーのように響きます。しかし、蓋しその実現は簡単ではありません。仲間の優れた点を互いに認め合い、称え合い、時に羨ましさを前向きに進む原動力としながらも、嫉んだり僻んだりして成長を自ら停滞させることなく、切磋琢磨できる素直さが必要だからです。一方で多様性尊重と称して、誰もが自分勝手に振る舞い、他者に無関心になる、あるいは表面上の付き合いだけで済ませ、理解し合うのを避けるようでは、それもまた社会として機能しません。皆それぞれが、和気藹藹としながらも刺激し合って自己研鑚し合い、この居場所を心地よくする努力を意識的に、あるいは無意識に為さなければ、本当に多様性を尊重した環境をつくることはできないのです。
2010年からのこの6年で、我々を取り巻く環境は大きく変わりました。社会の様相も、また栄光学園も、大きな転機を迎えているのかもしれません。私たちの慣れ親しんだ校舎は、跡形もない更地になりました。来月には70期を迎え、新校舎もいよいよ姿を現すことでしょう。我々も新天地へ、それぞれの一歩を踏み出します。
自分をとりまく世界が変わってしまうのも、自分自身が変わっていくことも怖いことです。しかし、変化は過去を否定しません。畢竟現在は常に、過去の上に成り立っているのです。栄光学園の精神もまた、校舎が無くなっても仮校舎に、新校舎に、そしてここで育ち、ここを巣立っていく我々の心に受け継がれていくことでしょう。いつでも私たちは、懐かしい母校、栄光学園を、甘酸っぱい青春の追憶の中に想い起こし、真っ直ぐ歩き続けるための道標、星の光とするでしょう。
前号で科学の甲子園神奈川県大会優勝をお知らせしましたが、県の代表として3月に茨城県で行われた第5回全国大会に8名で出場し、総合準優勝を飾りました。筆記競技、実技競技、総合競技が3日間に亘って行われましたが、リーダーを務めたU君(65期)のレポートを紹介します。
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今回は僕にとって二回目の科学の甲子園でした。先輩に引っ張られた昨年でしたが、今年はリーダーとして引っ張っていくことになりました。リーダーとして効率のいい計画を立てたり、うまくメンバーをまとめたりできたかは微妙でしたが、メンバーや、協力してくれた皆さんのおかげで全国2位という栄光の最高記録を更新する成績を残すことができました。 僕が出場した競技は2日目の筆記競技と3日目の総合競技です。競技の内容は多分誰かが書いていると思うので省略します。
2日目の筆記競技では、情報分野の問題を担当しました。何度も筆記競技の練習をしていたので、緊張することなく全力で解くことができました。メンバーでひとりしか情報を担当してないので、わけがわからなかったらどうしようかと思っていましたが、解けて良かったです。
3日目の総合競技では、送信器と受信機を作るのと予選は楽しく落ち着いてできました。楽しくできるのはいいことだと思います。決勝では緊張してしまい、決勝に進出した8チームの進行具合が表示される、会場の前の方にあるスクリーンが気になってしまい、自分たちの作業に集中する事ができず、そのせいで、失敗して総合競技で一位をとる事ができませんでした。実は、去年も同じようなミスをしていたのですが、今年は1位を狙える記録を練習で出していたので、4位という結果になってしまったのはとても悔しいです。
結果として、総合2位というすばらしい成績を残すことができました。表彰式でメダルをもらうのは初めてだったので、とてもうれしかったです。銀色でしたが、とてもずっしりとしていました。家宝にします。2位になることができたのは、最後まで協力して準備してくれたメンバーの皆さんや塚本先生、神奈川県大会に参加した皆さん、メンバーの選抜や指導をしてくださった先輩方をはじめ、科学の甲子園のために協力してくださった皆さんがいたからこそです。ありがとうございました。
高校の沖縄修学旅行が3泊4日で4月に行われました。
1日目-平和講話、2日目-平和学習、3日目・4日目-選択コース(自然観察、体験、地元交流)で旅行委員により企画されましたが、講演と平和学習の感想文を紹介します。
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T君
修学旅行初日。自由行動の後に県立博物館に集まった僕たちは、沖縄戦経験者の安里さんによる講演を聞きました。良く考えてみると、僕は戦争体験者のお話を聞くのは今回が初めてで、どのような講演であるのか想像がつかない面も多少ありました。正直に言うと、90歳を超える安里さんの話を全てしっかりと聞きとれるだろうかと心配していましたが、これは杞憂に終わり、安里さんの話は非常に聞き易かったです。ただ、安里さんはこの講演のために相当無理をしていらした様で、それにも関わらず、丁寧にお話し頂いたことは本当にありがたいことだと思います。
講演では、気さくに僕たちに話しかけて頂いたこともあった一方で、安里さんが涙を浮かべる場面もありました。この時、戦争での体験を語るということが、戦争を経験された方にとってどれほどつらいものであるかということが、ひしひしと伝わってきました。そのつらさをこらえてまで、話をして頂いている裏にある思いを僕達は重く、しっかりと受け止めるべきだと思います。単なる史実を見つめることのみならず、実際に戦争を経験された方の話を聞く重要性はこういったところにあるのだろうと僕は今回感じました。
降りしきる砲弾。ガマの中での過酷な食糧事情や、現代では想像もできない衛生環境の悪さ。道やガマに転がる死体とそれに群がるハエ。日本兵による沖縄の住民への迫害や虐殺。家族を奪われる悲しみ。今回の安里さんの講演と、その事前学習や実際に安里さんが避難したガマ(轟壕)への訪問などで、沖縄戦がどれほど悲惨なものであったか、一部分ではあるけれども、僕達は知ることができました。それを知った上でどうするのか、ということが非常に大切であると思います。少なくとも、僕はそのような悲惨な経験を決してしたくないと、単純に、でも強く、そう思いました。
平和学習やそれに関連することを直ぐにしらじらしいなどという人がいます。しかし、その様なことを言う人で、安里さんが経験した様な悲惨な環境に身を投じたいなどという人はいるでしょうか。
しかし、戦争というのはそのような環境を生み出してしまう。そのことを僕達に気づいてほしいという想いで、心身ともにつらい思いをしながらも安里さんは講演をして頂いたのだと思います。だから先述のように僕達はその思いを真摯に受け止めて忘れてはならないと思うのです。なぜなら、あのような悲惨な経験は誰もがしたくないであろうから。
体調のすぐれない中、僕達のために講演をして頂いた安里さんや今回の講演の手助けをしてくださった方々への感謝を述べて締めくくりたいと思います。本当にありがとうございました。
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K君
2日目はクラス毎にバスに乗って一日中平和学習をしました。自分のクラスには太田光さんというボランティアで平和について伝えることをしている方がついてくださいました。
2日目を通して最も印象的だったことは、この日の一番初めに、前日お話を聞いた安里さんが実際に沖縄戦の時に避難していた “轟の壕” というところに行ったことでした。事前学習で中の様子を聞いたり読んだり写真で見たりということはありましたが、実際に行ってみると想像以上に過酷な場所でした。入り口は狭く、中は岩でゴツゴツしていて泥が多く、また、ライトがなければ全く見えないのでとても人が生活していけるような場所ではないと思いました。
他にも、白梅の塔、ひめゆりの塔、沖縄戦跡国定公園の平和の礎を巡りながらたくさんのお話を聞きました。一般に言われているような沖縄戦よりも、深いお話を聞き、戦争を経験した人各一人一人に壮絶な経験があることを知りました。
その後に沖縄国際大学に行き、沖縄戦から現在まで続く基地問題についての講義を受け、それについての意見交換をしました。この日一日を通して、沖縄戦についてとても深いことを学べました。そこで語られることのほとんどがつらく、悲しいものだったので心が痛くなることもたくさんありましたが、この経験は沖縄戦に限らず戦争や平和について多くのことを考えさせられたとても良いものであったと思います。
前号で紹介した「脳腫瘍と闘う少年音楽家加藤旭君(66期)」が5月に亡くなられました。日本テレビの「24時間テレビ」でも脳腫瘍と闘いながら作曲活動を続け16歳で亡くなった天才作曲家として紹介されましたが、学園の追悼式が6月に大講堂で行われています。当日の望月伸一郎校長のことばを紹介します。
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今日、私たちは、先月の20日になくなった高2C組の加藤旭くんを追悼するために集まっています。この講堂には、加藤君のお母さまもいらしてくださっています。
追悼式を始めるにあたり、まず最初に、皆さんで、加藤君の冥福を祈りながら黙祷をしたいと思います。
その場で姿勢を正してください。(黙祷)
皆さんも知っている通り、加藤君は3年前の中学二年生のときに、脳腫瘍を発症し、入退院を繰り返しながら療養をしてきました。大きな手術を幾度もうけ、また抗ガン剤による治療も続きました。肉体的・精神的な痛みや苦しみはどれほど大きかったことでしょう。しかし、加藤君と接したことのある人たちはみな同じだったと思いますが、私たちはそんな苦しみの中にいるはずの加藤君と会うたびに、いつも逆に明るい気持ちになり、自分も一生懸命にがんばろう、という思いに、自然になっていきました。私自身も、病院で、ご自宅で、学校で、加藤君と話をするたびに、自分が前向きな気持ちになっていたことを感じていました。それは、加藤君が自分自身の中で、痛みや苦しみを、逆に、友だちや周りの人々、そして特に同じような難病と共に生きている人々に対する、思いやりや愛情に変化させていたからではないか、と思います。周りの誰もが、いつしか加藤君に励まされていました。そして、今も励まされています。
私たちがよく知っているmen for othersという言葉を、加藤君は自分の生き方を通じて、今も私たちに示してくれています。
今日の追悼式は、そんな加藤君の思いがつまった音楽作品を、仲間の人たちが演奏してくれます。ここに集まった私たちすべてが、今日の追悼式への参加を通じて、加藤君の思いをしっかりと受けとめ、そしてその思いにこれからの私たちを重ねて歩んでいくことができる、そのような集まりにしたいと思います。
内山 正樹 (9期)