ホーム活動報告・会報記事学園だより―栄光学園創立70周年にあたってー 創設者デッカー大佐と初代校長フォス神父

学園だより―栄光学園創立70周年にあたってー 創設者デッカー大佐と初代校長フォス神父

今年は栄光学園が1947年に横須賀田浦に開校して70年の記念の年である。それを記念して新校舎の建設、記念コンサート、記念パーティーなど数々の行事が行われ、同窓会も多くの記念行事に関わってきたが、その一つとして栄光学園の70年間の歴史の歩みを示すアーカイブスの資料の整備がある。その資料の一つとして横須賀米軍基地司令官B.W.デッカー大佐(当時、後に少将に昇進)の写真等が創立記念日の2017年6月21日に望月伸一郎校長に贈られた。(写真1)

1期生の澤田壽夫氏(上智大学名誉教授・弁護士・故人)は常々「フォス校長は初代校長であって栄光学園の真の創設者は第四代横須賀米軍基地司令官のデッカー大佐である」との考えを持っておられ、「デッカー大佐の功績に対する認識が学園内で非常に薄れていることはとても残念なことである。学園としても創設者デッカー大佐の功績を見える形で残すべきであり、デッカー大佐の遺品が栄光学園にひとつも無いのは残念なことで、70周年を機会に栄光のア―カーイブスにデッカー大佐の記憶を残すべきである」と兼ねてから主張されていた。

デッカー大佐(写真2、注1)は日本の復興に最も必要なことは若者の教育であるという強い信念を持っておられ、それにはキリスト教を基盤とした教育が最も相応しいとの考えから、横須賀にいくつかの学校を建設するべく奔走されそれを実現されたのである。栄光学園もその一つであり、清泉女学院も長野から横須賀に進出してきた。栄光学園の場合は、デッカー大佐は「カトリックのイエズス会は中央組織がしっかりしていて指令も行き届いている」との信頼感から横須賀海軍基地のポズナンスキー神父に協力を求めたのだ。そこで同神父はイエズス会のビター神父とフォス神父をデッカー大佐の許に連れて行ったのだが(注2)、学校建設の予定地として提示された田浦の水雷学校跡地の余りにも荒れ果てた現地を見た両神父は一旦は開校に危惧を抱いたようだった。しかしデッカー大佐は「直接資金の提供はできないが、できるだけの協力はするから」との提言に信頼して男子校の開校が決められた。イエズス会は米国留学から帰国して上智大学の新進気鋭の教授に内定していたフォス神父を初代校長に抜擢した。

デッカー大佐と言えば当時の栄光生には忘れられない思い出が一杯ある。

デッカー大佐はフォス校長に約束した協力のひとつとして栄光開設の資金の一助にと古くなった飛行艇を突然荒廃した敷地に送ってきた。解体して販売し資金の一助にとデッカー大佐からの贈り物である。また広い校庭をフォス校長が自由に走り回わったり、アメリカ海軍基地との往復、生徒の家庭訪問に使われたジープも大佐からのプレゼントだった。イエローペーパーと言えば今はサッカー用語であるが、当時は不要になったアメリカ海軍の暗号文の書かれた黄色のペーパーが大佐から大量に支給されて、その裏がテキストの印刷やテストの用紙として使われたことは未だに当時の栄光生の懐かしい語り草となっている。アメリカ海軍が学校に与えた有形無形援助は膨大なものだった。(注3)

以下澤田壽夫氏が『書斎の窓』のリレー連載に書かれた中からデッカー少将の横顔の一部をご紹介する。(注4)

デッカー少将(当時は大佐)が1946年から4年間横須賀のアメリカ海軍基地司令官として日本の人々との親交を築きながら軍港都市横須賀を平和な民主都市として再生させるために力を尽くした足跡は大きい。

デッカー少将は海軍将校を多く輩出した家に生まれ、第一次世界大戦後4年目の1920年に海軍兵学校を卒業した。それから何隻もの軍艦に乗務してゆくが、その合間に一度ならず母校兵学校で教育に当たったことは、後日日本で教育に熱意を燃やしたことにつながるように思われる。

デッカー少将はみじめな敗戦にあえぐ日本に、横須賀アメリカ海軍基地司令官として着任したが、いわば雲の上の人として基地とそれの位置する都市の統治に終始することで職務を果たし得たがそうはしなかった。大佐が次々に実現していったことは、戦勝国つまり占領軍の司令官という強力な地位によるものではあったが、それにとどまらない。彼はまず駐留アメリカ軍人の厳格な綱紀維持をはかって、それに成功するなり、次に手がけた水道の大々的修理は基地内の水圧に十分なのは一日三時間だけで、基地貯水池がすぐに空になるという状況の改善に急を要したからだったが、それは市民の水確保にもつながった。

ハエ、カ、ノミなどを退治するためのDDTの大々的散布も市民の衛生状態改善に貢献した。そのあとは、公立学校を訪問して一驚した不衛生なトイレの改造というふうに、大佐の打つ手は、だんだんと彼個人の発想、努力による市民そして日本との親善を目指す行為へと広がっていった。

荒れ果てた旧海軍の病院を一般市民の病院として再生させ、十三ケ所の病院の厨房その他の施設を改善した。父母と教師の会の設立援助や子供たちのための運動場作りなどを通して夫人たちとのあたたかい交流が実現し、新生横須賀婦人会による感謝の大集合が開催されるようになる。いくつもの学校の援助をしたが、いつまでも残る事業としては、長野からの清泉女学院の進出の援助、そして栄光学園の創立がある。アメリカでの男子教育の伝統があるイエズス会に作業を依頼して1947年5月栄光学園開校式にこぎつけた。開校式でデッカー大佐から1期の野村篤氏に奨学金第1号が贈られた。(写真3 野村氏提供)

デッカー大佐の日本との親善は日本の中央に拡がり、吉田茂首相を始め、東京からの重要な官僚、実業家を招く大宴会なども開かれたり学校の儀式に招かれてアメリカ国歌の演奏を聴くや、次に日本国歌君が代を歌うように依頼したり、他界も近づいた偉大な日本の長老提督米内光政海軍大将をあたたかく見舞うなど、日本の人々の琴線に触れる振る舞いが続き、それだからこそ、市会がデッカー少将の留任嘆願をマッカーサー元帥に送ったり、「どうかあなたが海軍の軍籍を離れて日本市民になり、市長候補になって欲しいです」と懇願されるまでになった。今も横須賀中央公園に見事な銅像が残る。一人一人の善意と思いやりの積み重ねが二つの国を結ぶ。

参考文献:

注1:『黒船の再来』14頁 2011年5月1日 横須賀学の会

注2:同上 121頁

注3:『デッカーさんと出会った人びと』「海軍暗号紙と飛行艇」
2012年11月17日横須賀学の会

注4:『書斎の窓』No.624 21頁 2013年5月1日 有斐閣

東海林 修 (2期)

(写真1)

(写真2)

(写真3)