前2回欠席、久しぶりの参加である。
金子先生の跡を継いだ三春さんの案内書はきめ細かく懇切丁寧、自作の地図も添えられている。加えて高性能携帯拡声器を装備し、よどみなく歯切れの良い語り口で参加者の好奇心を掻き立てた。
参加者16名、我々6期が最長老、京急三崎口を10時過ぎに出発、路線バスで城ヶ島へ、帰りは17時近く、歩行距離は16000歩を越えていた。
散策は、午前、白秋記念館見学に始まる城ヶ島ハイキング、午後、三崎の「白秋文学コース」巡りである。
白秋記念館を後に、駐車場の脇からなだらかな山道を登るとウミウ生息地展望台に出るが、季節外れか1羽も見えなかった。
さらに進むと「馬の背同門」、幹事は安全上、上から眺めることだけを薦めたが、ダメと言われると見たくなる野次馬仲間に引き摺られ、足元覚束ない岩路を下り磯に降り立つと、我々と同じ背格好の数人のパーティーが岸壁の断層を指し示し、何やら議論中。城ヶ島は「日本の地質百選」にも選ばれ、島の至るところに地質学的に貴重な地層が露出している地史研究の宝庫でもある。
昼食後、島からバスで三崎に向う。「城ヶ島大橋」を渡り下車、階段を伝って橋の袂に下りるとそこが「向ヶ崎公園」、本日のハイライト、白秋旧宅跡である。
「春の鳥な鳴き鳴きそあかあかと戸の面の草に日の入る夕」、歌集『桐の花』の冒頭に収められた一句、教壇をゆったりと歩く端正な恩師の姿が蘇って来る。ここはまた、教科書にはなかった「桐の花事件」の舞台でもある。
白秋は後年、文芸誌『新潮』に記している。「俊子精神的に離縁せられ、その夫および情夫より侮辱せらるるや、見るに忍びず救わんとしてかえって小人の陥穽に陥り、訴えられて未決に入る。」、俊子の夫、松平長平から姦通罪で訴えられたのである。幸いに、弟鉄男氏の奔走により示談が成立、起訴は免れたものの世間の風当たりは強く、大正2年5月、新妻俊子を伴い家族と共に、三浦に身を潜める。
この苦境を救ったのが「城ヶ島の雨」、島村抱月が芸術座第一回音楽会のために作詞を依頼、自信喪失の白秋が詞を書き上げたのは発表会の3日前、作曲は新進気鋭の梁田貞、1日で曲を付け、そして自ら美しいテノールを披露した。当時ラジオ放送はなかったが、奥田良三のレコーディングによって瞬く間に全国に広まった。
三崎の入組んだ地形は現在漁港として整備され、倉庫や市場で賑わうが、遠く鎌倉時代には幕府の行楽の地として、頼朝が一族郎党を率い宴を催した風光明媚な地である。
『吾妻鏡』に次の記録がある。建久五年(1195年)閏八月大、一日、戊午、快晴。将軍家三浦に渡御。(中略)秉燭(ヘイショク)の程、御臺所並びに若君・姫君等渡御。(中略)醇酒興を催し、珍膳美を加ふ。この所の眺望、白浪を鋪(シ)き、青山に倚る。およそ地形の勝絶、興遊の便を得るものか。」 (『全譯吾妻鏡』人物往来社)
頼朝は三崎に椿、桜、桃の三御所を設け、その跡地が現在の大椿寺、本瑞寺、見桃寺であると伝えられている。
椿の御所「大椿寺」は、頼朝寵愛の側室が頼朝の死後髪を下ろし、菩提を弔った寺と言う。
「寂しさに秋声が書読みさして庭に出でたり白菊の花」、桃の御所「見桃寺」にある白秋直筆の歌碑である。大正2年10月、白秋が俊子を伴い家族の去った向ヶ崎から境内の片隅に仮寓した地でもある。
「海南神社」は創建866年、頼朝挙兵に当たり三浦氏はこの神社で戦の帰趨を占ったと言われ、境内に頼朝寄進と伝わる巨大な公孫樹が聳え立つ。
散策の最後は「歌舞島」、頼朝の宴はここで催されたという伝えがあり、富士を背景にした相模灘に浮かぶ江ノ島、湘南の夕景は今も素晴らしい。
相模灘に沈む夕日を背に現地解散、常連組の何人かは横須賀中央で途中下車、慰労の杯を交わし、次回の再会を約す。
小金沢 英夫 (6期)