3月30日、晴天、12名の参加者がJR「東戸塚」駅に集合、その東部地域の史跡を歩く。嚮導は6期生、三春さんが実施、彼が皆を、各要所に誘導し、解説する。そして、皆が会得した知識を基に、寺院等、旧東海道施設を、見学する形で推移。桜等の満開時で、道中も、寺院の中でも、様々な花の話、歴史話の薀蓄等が弾む。色彩も、音声も、なかなかにぎやか…で、楽しい。
今回の踏破地域を、俯瞰すると、以下のとおり。JRの線路、「環状2号」等の幹線道路2本、旧「東海道」が並行して、ほぼ南北に走っている。又、駅(線路)の東西に、各々丘陵が在り、丘の表面は、近代的な商業地、住宅地となっている。とりわけ、東側地域の丘、中腹には、30階建ての高層アパート7棟、及び「オウロラ・シテイ」なる未来風の商業施設も見られる。東西二つの丘の中腹と駅は、巨大なpedestrian-deck(歩道橋)で結ばれている。住民は、線路の在る谷底まで降りずに、空中を移動して、電車を利用できる。東の丘上の「福寿観音」傍らの顕彰碑の内容に依れば、福原政二郎が東戸塚の駅、街並みの設計、建設に貢献、25億円の私財も提供した、とのこと。彼の郷土愛の大きさには驚く。
この近代的な駅と街並みから周囲に1㎞も離れると田園地帯が広がる。乳牛を飼育する牧場、農家風住宅、梨、葡萄、桃、柿の果樹園(「果実の里」)が見られる。梨の白い花が印象的。
駅から出発し、すぐの場所、「白旗神社」。源義経を祀る。先述した牧場のそばに、「北天院」。新見(しんみ)家の菩提寺であり、美しいお庭と鳥と菖蒲の襖絵が印象に残った。新見(しんみ)家は東戸塚信濃町地域の領主であり、旗本として江戸幕府を支え、有能な人材を輩出している。とりわけ、新見正興は、幕末「ペリ一来航時」、外国奉行、神奈川奉行を兼務した。現代では、外務大臣、兼務、神奈川特別市の市長相当職であり、更に、彼は1860年、「遣米国使節団」主席代表を務め、渡米し、条約の批准をした。(主席代表のもう一人は、小栗忠順)。「遣米国使節団」は米国船ポーハッタン号に座乗、随行した軍艦が、咸臨丸である。勝海舟が艦長、福沢諭吉、ジョン万次郎らが乗り組んでいた。我々現代日本人としては、「咸臨丸航海」として、馴染みが深く、諭吉の「福翁自伝」及び海舟の「氷川清話」に、興味深い話が多い。
旧「江戸期東海道」の史跡。「保土ヶ谷宿」から「戸塚宿」間の一部を歩く。ここで、意外な話。東海道、保土ヶ谷宿から「藤沢宿」間の街道は、徳川家康が、旧来の道に代えて、1600年、関ヶ原の戦勝後、建設した。「戸塚宿」もその関連で、誕生した。旧道は、戸塚、原宿を通らず、(栄光学園の在る)大船、玉縄を通る、川沿いの平坦な歩き易い道であったが、大雨、川の増水、通行止めとなることが多々あった。家康は、国家プロジェクトとして、膨大な資金、労力をつぎ込み、尾根を掘削し、尾根道の街道を新設した。大雨による交通遮断の心配は解消し、軍団の移動、旅人の通行は便利になったが、一方、道中に、体力を消耗した、人々、牛馬にとってはやや過酷な道となった。(因みに、正月の「箱根駅伝」のコースになっている。)
保土ヶ谷宿を出発、西へ向かうと、権太坂がある。この坂は、箱根に次ぐ難所と謂われ、行き倒れの旅人(行路不明人)、運搬能力を喪失した牛馬が多数発生した。「境木」の立場から西へ向かい、左方、街道南側の谷戸に、多数の穴が掘られ、これら、多数の遺体が埋葬された。(投げ込み穴)。
夜には、人魂(鬼火)が空中を舞った。死体の骨から発生した燐Pの化合物が燃焼したのであろう。
後年、「投げ込み穴」の大量の骨は、掘り出され、近くの「東福寺」に埋葬された。鬼火騒動も終焉した。「投込塚碑」が、我々に、経緯を語りかける。
暗闇に、鬼火が舞う、江戸期東海道の暗黒面(ダーク・サイト)の話から一転。陽光の下、桜の花弁が舞う道中、陽気な楽しい旅の話をしよう。我々が歩いた行程と重ね合わせてみる。こんな感じ。保土ヶ谷宿を通過、難所の権太坂も何とか乗り切った。旅の仲間たちも元気だ。さあ、前方に境木の「立場」と「地蔵様」が見えた。いよいよ、武蔵の国から相模国へ入る。名物の焼き餅を食べよう。この境木立場を後にすると、信濃町地域の大きな「一里塚」が見える。9m四方の大きな塚で、目印として、我等旅人を励まし、安堵感を与える。塚の上には林が在り、木陰で涼を取ろう。往時、この様な雰囲気だったろう。この一里塚は、往時をとどめて残っている。歴史文学散歩は、信濃から赤関橋までの桜並木を見て終了、東戸塚駅に帰着する。
美しい「桜花」と恐ろしい「鬼火」が印象に残った。現代の道を歩き、江戸期の旅人気分を想像した「東戸塚」探訪の顛末は以上。この楽しい一日を過ごせたことについて、一緒に過ごした先輩方と故「金子先生」に、改めて謝意を示す。
藤野 幸弥 (21期)