2024年11月21日(木)歴史文学散歩
「富岡神社周辺史跡を訪ねる」に参加して
歴史文学散歩を主宰された故・金子省治先生を思い出し、前回の田浦を歩く会から参加、今回は2回目である。横浜から田浦の栄光に通っていた時も、横須賀に移り住んで東京・横浜に通勤していた時も特急を利用していたので「富岡」は通過してばかり。富岡が本当はどんな町かを知りたくて参加した。
午前10時「京急富岡駅」に集合。参加者は総勢20名。女性は同窓会事務局の吉田さんと原さんのお二人。OBの年長者は3期、年少者は20期だから平均年齢は高い。引率の大島先生(14期)から簡単な説明を受け、参加者全員自己紹介を行う。聞けば、大島先生と補助を務める原口さん(12期)は一度下見をされているそうだ。頂戴した資料を見ると、今年2月に亡くなられた三春さん(6期)が生前準備されたものである。改めて「歴史文学散歩」を支えている方たちに感謝したい。
今回のコースは京急富岡駅―二松庵―持明院―宝珠院―富岡総合公園(横浜海軍航空隊跡)―長昌寺―直木三十五碑―孫文碑―富岡八幡神社―京急富岡駅。駅の海側を時計回りに5kmほど歩くもの。
いよいよ出発。昨夜来の雨はやみそうでやまず、半分ぐらいの人は始めから傘をさした。最初の訪問サイトは二松庵(旧川合玉堂邸)である。驚いたことに歩き出したと思ったらすぐ着いた。駅のすぐ近くにこんなに閑静な場所があるとは。この日はがけ崩れ復旧工事のため中には入れず、茅葺ぶき屋根の正門を見て引き返した。
明治から昭和にかけて活躍した日本画の大家・川合玉堂はこの別邸を夏冬の画室として活用したとのことで、画室から見える風景や周辺の人物や景色をよく描いたといわれる。
駅から国道16号線(横須賀街道)までは僅かな距離なのに持明院そして宝珠院とお寺が続く。何れも真言宗御室派の末寺。温暖で南面の風光明媚な高台ゆえに立地として選ばれたのであろう。
持明院は鎌倉時代の創建で、かつてはもう少し西の長浜にあったが、1311年に東京湾で起きた大津波により村ごと消滅し、この富岡に再建されたという。同じ頃相模湾には大津波の痕跡はなく、東京湾内だけで起きた津波であるという。
国道16号線に出て横断し道沿いに東上し富岡総合公園に向かう。依然として雨が降っていてうっとうしい。鳥見塚のT字路を右折するといきなり下り坂の桜並木が現れた。すぐ先に旧横浜海軍航空隊の入口跡があり、そこで大島先生より説明を受けた。
横浜海軍航空隊は1936年10月1日、飛行艇隊の主力として当地に建設された。この地は今でこそ内陸だが、当時は根岸湾に面した広大な土地であった。南太平洋ソロモン群島ツラギで偵察活動に従事していたが、1942年8月7日に米軍の反攻上陸を受け、500余名の隊員が玉砕したとの記録がある。隊員を偲ぶ浜空の碑が建立されており、毎月遺族やボランティアにより清掃、維持活動が行われているという。桜並木は浜空開設のとき隊員の手で植えられたものであるという。桜の由来碑には「年々歳々花変わらねど征きて還らぬ戦友多かりき」と謳われており、とても悲しい気持ちになった。
横浜海軍航空隊は終戦と同時に米軍に接収され、通信、倉庫基地として利用されていたが、1971年に返還され、富岡総合公園に生まれ変わった。
総合公園内の坂を上っていくと多目的グランド、テニスコート、アーチェリー練習場などの運動施設があり、さらに上ると見晴台に着いた。この頃、雨はすっかり止み、陽がさしてきて視界良好となる。この場所はかっての海岸線。眼下に紺碧の海が広がっていたであろうことは容易に想像できる。今は沖合まですっかり埋め立てられ、南部市場、大型家電店、三井アウトレットパークなどの施設や首都高湾岸線、国道357号線、横浜シーサイドラインなどの交通インフラが見える。ここで一同、景観を楽しみながら昼食をとった。
昼食後一旦坂を下り、総合公園に沿うように埋め立て地の中を歩いて長昌寺に向かう。
長昌寺は戦国時代末期の創建。臨済宗建長寺派。大衆小説の文学賞である直木賞の由来となっている直木三十五(本名は植村宗一)のお墓があることで知られている。直木三十五は昭和8年(1933年)12月に風光明媚な富岡の地が気に入って慶珊寺の裏山に土地を借りて家を建て、東京から移り住んだが、翌年の2月に持病の悪化で東京の病院で亡くなったという。
すぐ近所の慶珊寺に立ち寄り、さらに急坂を上って裏山に行ってみると住居跡に碑が建っており、「芸術は短く貧乏は長し」と彫ってあった。直木三十五の随筆「哲学乱酔」に「恋は短く貧乏は長し」のフレーズがあり、それをもじったものだそうだ。
慶珊寺の角地にまさかというような史跡がある。世界史に登場する孫文の上陸記念碑が建っているのである。碑にはこう書かれている。「近代中国建設の父にして三民主義・大アジア主義の提唱者である孫文先生は第二革命に際し袁世凱に追われ中国を脱出、台湾経由日本に亡命を企図され、1913年(大正二年)8月17日横浜沖より小舟にて当地富岡海岸に上陸 東京に向かわれた・・・・・」
孫文は横浜港で堂々と入国することはせず、亡命の身ゆえに小舟で密かに富岡に上陸したのである。
次に最後の訪問地である富岡八幡宮に向かう。昔の海岸線を黙々と歩いていく。「富岡の海は山が深い影を落とす美しい海だった」という記述があるが、それを彷彿させる。途中「松方正義別荘跡」の碑を目にした。松方正義は薩摩出身で、総理大臣や大蔵大臣などを務めた、明治~大正の大物政治家である。他に三条実美、井上馨、大鳥圭介といった大物政治家も当地に別荘をもっていたそうである。また伊藤博文も仮住まいをしたことがあるそうで、当地で閣議が開かれたこともあるという。
富岡八幡神宮に着いた。緑の樹々に囲まれた、朱色が目立つ、風格のある神社である。1191年に源頼朝が当地の鎮護のため摂津の西宮の恵比須様を祀ったのが始まりであるという。1311年の大津波の時に地区を守ったことから波除八幡の異名をもっている。江戸深川の富岡八幡宮は徳川家康が江戸の埋め立て工事の無事を祈願してここの分霊を祀ったものであるという。
毎年多くの神事が執り行われ、市民に親しまれている。夏に行われる祇園舟の祭りでは舟が神社から海岸の船溜まりまで行き着けるよう埋め立て後の今でも水路が確保されているとのこと。
ここで記念写真を撮った。
大島先生の長めの締めのお話を聞いて解散した。一同、駅まで一緒に歩き別れた。
富岡探訪の目的はほぼ達成できた。「富岡は鎌倉の後背地ゆえに古くから寺社があった。明治になって温暖な気候と美しい海岸線の景観とが相まって大物政治家や芸術家の人気を博し、東京の避暑地・避寒地となっていった。やがて京浜急行が開通し、軍事基地化が進むに連れて、また戦後は近代化・工業化の波が及ぶに連れて、富岡本来の良さは消えつつ、東京・横浜のベッドタウン化していった。」と理解した。(終)
花井 勝三(12期)