2025年11月18日(火)に、社会科、金子省治先生、創生の「歴史・文学散歩」が実施されました。総勢28名が、午前中は、「玉縄城」土木遺構等を探訪し、午後は学園内で、田浦から大船への移転の裏話などを聞きました。さらに、両時代を生き抜いてきた「懐古の品々」を拝見し、感慨に耽りました。
「玉縄城」は、16世紀の堅固な山城で、多数の城郭と深い「堀切」、更に「馬出」を持つ城。その城域は鎌倉市「玉縄、植木」地区から、藤沢市「村岡」地区までの広範囲に及ぶ。一方、江戸期の城の三要素「天守」「石垣」「瓦」は保有せず。
(小田原)北条氏の領国経営に不可欠の城で、その城主は初代「早雲」の子孫がつとめた。三代目城主「綱成」の伝説によると、本家の当主が、有能な若者に目をつけ、北条姓を与え、玉縄城主に据えた。さらに、愛娘を綱成の息子の妻にした。子孫の4代~6代目、城主も、誠実有能であった。6代目「氏勝」は、秀吉の「小田原侵攻の大軍」と伊豆国、山中城で戦った。敗退後は、居城「玉縄」で徳川勢相手に篭城戦に入る。その後、(「大応寺」僧侶を仲介とした)徳川家康からの和解に応じ、氏勝は「無血開城」した。その結果、鎌倉市住民と城兵の生命、財産は戦禍から守られた。
玉縄地域は、徳川家の支配となり、短期間「玉縄藩」が置かれた。初代藩主は「氏勝」(先術)。現在の地名、伝承等に当時の「名残」が見られる。「城廻(シロメグリ)」、「陣屋坂(ジンヤサカ)」「陣屋跡」、城護山「明王院」圓光寺、玉縄山「残光院」貞宗寺(二代将軍、徳川秀忠の祖母の墓あり)、「七曲坂の貴婦人」の伝説等々。その後、「廃城」、「廃藩」となり、玉縄藩の領域は、幕府の天領、旗本の所領(例えば新井白石の所領)と分割された。
「城」は土木遺構のみが存続し、360年の永い眠りにつく。
1960年代に入り、昭和期の都市開発、土木工事により、「城」土木遺構は消滅し、ごく一部が残った。「城」本丸は清泉女学院用地に、「堀切」等の防禦施設は、栄光学園用地、一般の住宅とアパートの用地へと変貌した。
さて、我々の「探訪」の実際。18日10時、大船駅に集合し、出発。
晴天、暖気のもと、歩行中の会話も和やかに弾む。
路線バスで、「清泉」から「栄光」へ移動。
母校内、聖堂隣接の「アロイジオ」で様々な話を聞く。
学園の、横須賀市田浦「長浦湾」から大船「玉縄」への移転「裏話」も耳にする。
「栄光、清泉2校が玉縄地区に移転すると、この地区は文教地区として、付加価値がでる。それ故、学校関係者、都市開発会社、行政、地主が全員賛成した。」という推定が成立。
学園内を歩き、知見した「懐古の品々」について。
田浦時代からの品は78年、大船移転からの品は60年の歴史がある。
中学校校庭の「境界柵」の一部として、ひっそり立つ「門」。この門は、田浦「長浦湾」の入り口にあった学園の正門。
講堂2階の木製、連座のガッシリした椅子は、田浦の講堂から運ばれたもの。
講堂1階の椅子は、今や60年が経過し、裂け目、傷みが目立つ。
「修道院」は、イエズス会修道士の激減で、無人となっている。
現在の「新校舎建設」の打合せで、栄光OBの建築士が、夜遅くなり、無人の修道院に宿泊した話等、私は思い出した。
最後に、複数の参加者が、異口同音に、愛情を込めて発言した内容を紹介。
「夏休み、田浦から大量の机、椅子、あらゆる物が、大船へと、トラックで搬入された。待機していた13~18期の生徒、教職員、修道士が、これらを校舎内へと運び入れた。きつい作業だったが、皆が一体感を持ち、良い雰囲気であった。」
藤野 幸弥 (21期)





